南山(中世)

鎌倉期から見える地名。会津郡のうち。初見は,寛嘉2年8月13日の長沼宗政譲状(長沼文書/県史7)で,「陸奥国南山」と見え,本文書によれば下野【しもつけ】国長沼荘を本拠とする長沼宗政が,長沼荘・会津南山などの地頭職を嫡子時宗に譲り渡していることがわかる。宗政は文治5年源頼朝の奥州合戦に参加し,その功により会津南山の地頭職などを与えられたと伝える。建武元年8月28日の後醍醐天皇綸旨(皆川文書/県史7)では,「陸奥国長沼(江カ)庄南山内古々有(布カ)郷・湯原郷等地頭職」と見え,後醍醐天皇は下野国の長沼氏の惣領長沼秀行に会津長江庄南山内の古々布・湯原両郷の地頭職を安堵している。延元元年4月8日,陸奥国衙は大河戸下総権守に「陸奥国南山内長沼河原田弥四郎跡」の地を与えており(朴沢文書/会津若松史8),長沼氏の一族である南山伊南郷の地頭河原田弥四郎が,前年8月足利尊氏とともに建武政権に叛いたことがわかる。観応2年と推定される7月23日の長沼高秀書状(結城古文書写/会津若松史8)に,「南山所領事,被懸御意之条先喜入候」と見え,下野国長沼荘地頭長沼高秀が,その同族である陸奥国白河荘地頭結城朝常に,南山の所領について尽力を依頼しており,南北朝期には白川結城氏が会津南山に勢力を伸ばしつつあることがわかる。応永20年6月25日の長沼義秀譲状(皆川文書/県史7)に,「陸奥国南山八郷地頭職」とあり,下野国の長沼義秀が孫の亀若丸に,下野国長沼荘地頭職・会津南山八郷地頭職などを譲っている。応永25年7月21日の足利持氏判物(皆川文書/県史7)に,「陸奥国南山庄」と見え,鎌倉公方足利持氏が長沼義秀の南山荘以下の諸公事を免除している。塔寺長帳長禄2年条に,「南山しき(鴫)山の城」と見え,大沼郡金山谷と会津郡南山伊北郷の地頭山内越中守が南山鴫山城(現南会津郡田島町)にこもった白川結城氏を攻めている。塔寺長帳永正2年に,「白川殿南山三郷のそミ(望み)候」と見え,同年8月17日蘆名盛高・盛滋父子が対立した際,白川結城氏が和議の斡旋の代償として南山三郷を望んだので,この仲介は不成功に終わっている。永正7年6月20日の前之坊行良旦那職売券(潮崎稜威主文書/県史7)に,「南山之地下一族其々知行分是も半分」と見え,熊野の御師潮崎前之坊行良は,南山半分熊野道者の旦那職を廊之坊に売買している。堯雅僧正関東下向記録(三宝院文書/県史7)元亀3年10月2日条に,「南山薬師寺ヘ移住云々,此所ニテ水丁證明云々」とあり,醍醐寺無量寿院僧正堯雅が会津へ来り,南山長江荘田嶋(現南会津郡田島町)薬師寺でも印可を行っている。会津地方南部,現在の南会津郡田島町・下郷町・只見町・舘岩村・檜枝岐村・伊南村・南郷村,大沼郡金山町・三島町・会津高田町,河沼郡柳津町を含む一帯。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7270434 |