守山藩(近世)

江戸期の藩名家門・小藩居地は江戸で,藩庁を江戸上屋敷に置き,守山・松川に陣屋を置いて支配を行った寛文2年水戸藩主徳川頼房の四男松平頼元は,水戸藩より新田2万石を与えられ分家元禄13年頼元は幕府より陸奥・常陸国内で,新たに2万石を封ぜられ,旧領を水戸藩に返上し,守山に陣屋を営み成立松平氏は,以後7代在封藩領は,田村郡26か村,常陸国行方【なめかた】郡(茨城県)内11か村,鹿島郡内15か村,茨城郡内8か村享保年間ごろより,領内農村の疲弊化が問題とされ,安永3年から藩政改革を実施,これは,農村人口の減少と手余り地の増加をくい止めようとしたもので,藩士・農民の倹約を強く推し進めたさらに文化14年には,領内特産物の菅笠の生産奨励と菅笠商人からの上納金収受を目的として菅笠会所を設置戊辰戦争には奥羽越列藩同盟に参加したが,藩内は勤王派が多く,慶応4年7月27日新政府軍が守山に迫ってくると,藩兵は戦わずして降伏した明治3年7代藩主頼之は,常陸松川(茨城県)に藩庁を設置し,廃藩となる

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7270602 |





