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江戸崎(中世)


 戦国期に見える地名。常陸国信太【しだ】荘のうち。文明3年3月7日の覚真が廊之坊へ与えた旦那売券に,「合代銭廿八貫文……常州東条郡一円,信田之庄先達・円林坊之門弟引旦那何も一円,江戸崎弐位律師引安恩之仙蔵坊之門弟一円……本主道遣可申候」と見え(潮崎稜威主文書/熊野那智大社文書),江戸崎に弐位律師がおり,安恩(穏)寺の仙蔵坊の門弟を覚真から廊之坊へ一円に売り渡している。当時江戸崎周辺において熊野信仰の盛んな状況が知られ,慶長4年の実報院や廊之坊の諸国檀那帳には「南江戸崎」と見える(米良文書・潮崎稜威主文書/熊野那智大社文書)。年未詳8月5日の土岐頼芸が息小次郎にあてた書状に,「此一種,従江戸崎令到来候間,其方へ遣申候」と見え(村山文書/岐阜県史),頼芸が,長良川の鮎などを送られた礼として,江戸崎にいる弟の治頼か,甥の治英から届けられた品物を息子の小次郎にも送っている。土岐原氏が江戸崎に本拠を構えた時期は不明であるが,南北朝期の嘉慶年間には,信太荘総政所として秀成が信太荘に入部し,応永年間からは在地の文書にもその名を見いだすことができる。その後,憲秀―景秀―景成―治頼―治英と継承される(土岐系図/続群5下)。その中で治頼は,美濃国守護土岐政房の子で頼芸の弟であったが,江戸崎の土岐原氏の家督を継ぎ,山内上杉氏の信太荘支配の代官的立場となっていた。その子治英は,戦国初期地域領主の立場を確立し,天文年間には,上条の大越氏,伊佐津の金剛寺氏らを従え,さらに竜ケ崎や牛久方面にもその勢力を拡大していく。この過程で,弘治2年5月吉日に建立された馴馬の来迎院の多宝塔九輪銘に,「江戸崎塔本願常徳寺行久」と見え,大檀那の土岐治英をはじめとして,かなり広範な地域に及ぶ人名が銘文の中に刻まれることになった(常総遺文)。また,土岐氏は佐竹氏と対抗して小田氏と友好関係を結んだ時もあったようで,永禄13年頃の状況を示していると思われる年月日未詳の戸部一閑覚書に,「天庵ハ浜辺ニ落行,船ニテ江戸崎ニ落着」と見える(佐竹家旧記/大日料10‐5)。塙政邦所蔵の覚書の元亀5年8月5日条に,「江戸崎より鉄炮かい参候」とも見える(安得虎子)。南常陸における反佐竹氏の強力な拠点として江戸崎が,小田氏治にとっても,また,鹿島・行方の領主からも注目されていた状況をうかがうことができる。その背景には小田原北条氏との関係が考えられる。天正12年と推定される10月9日の徳川家康充北条氏照書状に,「従江戸崎馬二疋被為牽上候歟」と見え(古証文/神奈川県史),江戸崎の土岐氏が北条氏照を通じて徳川家康に馬2匹を贈っている。また,天正17年11月24日に豊臣秀吉が北条氏討伐の軍令を出したことに関連する小田原一手役之書立に,「江戸崎,土き殿」と見え(安得虎子),土岐治綱が北条氏方として把握されている。天正18年と推定される年月日未詳の北条家人数覚書に,「一,とき美作守,常陸・江戸崎城・竜かみね・木原三ケ所,千五百騎」,関東八州諸城覚書にも,「一,常陸,江戸崎,土岐美作守」などと見える(毛利家文書4/大日古)。天正18年と推定される4月12日の頼継寺充多賀谷重経書状写に,「江戸崎之儀者不及申」と見え,まもなく江戸崎の土岐治綱をはじめ小田原北条氏に味方する人々に対し,佐竹氏・多賀谷氏をはじめとする豊臣方の攻撃が開始される旨が伝えられている(多賀谷隆経文書/家蔵文書)。天正19年4月20日の臼田左衛門尉覚書によれば,天正18年の5月19日には,神野覚助が江戸崎に入り不動院へ陣所を構え,20日には土岐治綱を高田須賀へ退け,江戸崎城下の家臣たちをも退けた(臼田文書/県史料中世Ⅱ)。やがて,臼田氏をはじめ多くの家臣たちは周辺の地に帰農する。江戸崎の戦後処理については,天正18年と推定される9月28日の東義久充佐竹義重書状写に「江戸崎之儀追而付置等如存候哉……追啓,土岐へ之書中可被相届候」と見え(佐竹将監文書/家蔵文書),3月24日の佐竹義宣書状写に「江戸崎之兵粮をハ留候ハす候」とも見え(和田掃部助文書/家蔵文書),佐竹氏の支配下に組み込まれ,佐竹義宣の弟である蘆名盛重の知行下に入る。一方,戦国末期と推定される年未詳5月21日の高野山清浄心院充土岐治綱書状の上書には,「従常州江戸崎,土岐源次郎源治綱」と見え(諸家古書簡類聚),位牌の供養について依頼している。高野山清浄心院に残る「常陸日月牌過去帳」には,「常刕江戸崎秋元五郎兵衛為父立之,得翁良弁上座位」という形式で,永禄3年の秋元五郎兵衛が父の位牌供養を依頼したのを筆頭に,慶長10年10月11日付の江戸崎田宿の塚本五郎左衛門が母の妙香禅定尼の位牌供養を依頼したものまで,江戸崎の地名を確認できるものだけでも46名が含まれている。特に,永禄5年2月22日付の土岐治英室,元亀4年2月29日付の土岐治頼室や上条の大越氏をはじめ江戸崎城下の土岐氏の家臣たちの動向がうかがえ,また,慶長3年7月の高野与五右衛門が「ホンマチ」,慶長10年4月の松崎雅楽助・同甚五郎が「本町」,慶長5年7月の小方八郎兵衛が「大町」,慶長7年7月の来栖孫衛門が「新宿」,慶長10年8月の助五郎左衛門と10月の塚本五郎左衛門が「田宿」と,蘆名盛重による江戸崎の城下町の整備が進んだ結果と考えられる城下の4町名を検出することができる。慶長16年9月16日の若栗村惣百姓が奉行所に提出した御めやすの事の中に,「常陸国江戸崎領松平むつの知行若栗村……江戸崎之御奉行衆へ罷出申上候……江戸崎へおとな衆御意見」と見える(湯原家文書/阿見町史編さん史料)。この訴状は,若栗と阿見とが村境の土地をめぐって争いを起こし,永禄4年に土岐越前の調停で落着したが,天正4年に再燃し江戸崎の奉行衆へ若栗村の老衆が直接訴え,以後は入会地とすることに決定した経過を述べ,慶長16年に伊達政宗の知行下に入った若栗村が「目安」として提出したものである。当地の不動院は,文明2年に土岐氏を檀那に,幸誉を開山として創建された天台宗寺院である。天文年間のいわゆる絹衣論争に関係し,不動院にあてられた天文24年7月16日の後奈良天皇綸旨を所蔵している。天正18年には,蘆名盛重が江戸崎城主となり不動院を修復して天海を同院8世に迎えている(不動院文書/県史料中世Ⅰ)。これと関連して,小野の逢善寺の檀那門跡相承資并恵心流相承次第の末尾に,「庚刁ノ年……江戸崎へ会津蘆名殿盛重打入,同道ニ稲荷堂随風取扱故,寺門相続……古旦那治綱,下総須田ニ窂倒有之」と見え(逢善寺文書/県史料中世Ⅰ),天海がまだ随風と名乗っていた時に江戸崎とかかわりがあったことを確認できる。日光の輪王寺慈眼堂所蔵の「金剛略諸会」の奥書に,「信太庄江戸崎不動院常住也,天文三年,不動院幸淳写」とか,「枕月,三身義」の奥書に,「天正廿年,江戸崎不動院随風写」,および,叡山文庫の天海所蔵本の「闇芸集」の奥書に,「天正十五年,於常州江戸崎,弁海写」などと記された典籍によって江戸崎における幸淳・弁海・随風の活躍の一部をかいま見ることができる(昭和現存天台書籍綜合目録)。慶長7年11月25日には徳川家康から150石の朱印地を与えられている(不動院文書/県史料中世Ⅰ)。大念寺は天正18年に蘆名盛重の帰依を受け,大坂夏の陣・冬の陣で東軍の帷幕にあって名をなした慶巌を開山として創建された浄土宗の寺院である。慶長6年5月25日付の源誉慶巌から真誉良徹に授けた円頓戒脈許可文に,「於大日本国常州江戸崎(大念寺)畢」と見え,慶長19年2月25日付の慶巌が良徹に授けた血脈次第にも,「常州江戸崎大念寺開山・伝戒仏子源誉慶巌」と見え,慶長7年11月25日徳川家康から50石の朱印地を与えられている(大念寺文書/県史料中世Ⅰ)。慶長7年佐竹氏が秋田へ国替を命ぜられ,蘆名盛重も兄義宣とともに秋田へ去り,江戸崎は,徳川氏の支配下におかれた。慶長8年4月6日付で青山忠俊に与えられた領地目録に,「常陸国信太郡江戸崎領之内,高壱万石」と見える(青山文書/大日料12‐1)。江戸崎城は舌状台地上に築かれた平山城で,現在城跡は学校およびグラウンドになっているが,本丸跡には土塁が残り,二の丸との境にも一部空濠と土塁が残る。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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