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柿岡郷(中世)


 鎌倉期~戦国期に見える郷名。常陸国北郡のうち。弘安田文に「柿岡三丁九段」と見え(税所文書/県史料中世Ⅰ),嘉元田文でも同数値(所三男氏所蔵文書)。永享6年8月7日の役夫工米大使一志文世安堵状は伊勢大神宮役夫工米徴収に際して,柿岡郷を含む「六ケ郷」の切手郷(公田)67町1反に関し税所氏の進退領掌を徴収大使である一志氏が安堵したもので,在庁官人税所氏の公田の私的所有をうかがわせる(税所文書/県史料中世Ⅱ)。年未詳12月21日の室田範長書状案によっても柿岡などについての税所氏の進退が明らかである(同前)。戦国期に入ると,北郡へは佐竹氏の侵攻が繰り返され,小田氏との反目の末,当郷は佐竹氏領有となる。この間,年未詳10月7日の江戸忠通書状写によって知られるように,江戸氏の進出もみられたが(石川氏文書/県史料中世編Ⅱ),天正18年と推定される年月日未詳の関東八州諸城覚書には「一,柿の賀〈間壁道無斎〉」とあり佐竹与党の真壁氏の柿岡城在城を伝えている(毛利家文書4/大日古)。柿岡城は,鎌倉期に小田氏一族の柿岡氏の館が築かれたことに始まり戦国期に及んだという。佐竹氏の南進の過程で佐竹麾下となった太田資正(三楽斎)の子梶原政景が入城し,のちに梶原氏が小田城に移ってからは佐竹氏は真壁房幹(道無)を入城させた。その後長倉氏,国分氏と交替し佐竹氏の秋田移封時に及んだという。年月日未詳の願行流血脈では,宥照について「柿岡南蔵院開山」と記している(小松寺文書/県史料中世Ⅱ)。文禄の太閤検地を機に新治【にいはり】郡に属す。慶長4年の廊之坊諸国檀那帳および同時期頃の実報院諸国檀那帳には常陸国檀那場として「かきのおか」「かきの岡」とある(潮崎稜威主文書・米良文書/熊野那智大社文書)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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