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荒町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。芳賀郡のうち。真岡【もおか】3町の1町。慶長2年宇都宮城で豊臣氏直轄領を統治していた浅野長政によって当町の町割が行われ,当町内の上町・下町の原形が形成された。慶長3年蒲生秀行が宇都宮に入封すると,真岡城には家臣町野幸和が配置され,翌年広沢将監・海老沢助兵衛らの援助を受け,町割は一層拡充された。慶長6年浅野長政三男長重が真岡2万石で新封となると,同11年奉行藤井又左衛門・手代作右衛門が上町・下町の整備を行い,同16年入封した堀親良は同18年奉行小島某に命じて当町に横町を造成させたという(真岡の歴史)。慶長7年1月18日付の大久保長安・長谷川長綱・伊奈忠次の下知状によれば,当町と田町・台町の真岡3町に対して地子を免許しており(栃木県庁採集文書/伊奈忠次文書集成),すでにこの頃までに町立てが行われていたことがわかる。なお慶安3年町屋が増加したために,町役人横田五右衛門・森田新右衛門・同茂兵衛らの立会いの上で当町と田町に分割されたともいう。高は,「元禄郷帳」では田町・荒町として1,938石余,「天保郷帳」でも同様にして1,980石余,「旧高旧領」では田町・台町と合わせた真岡町として3,542石余。寛政年間頃,熊倉伴次が当町の周辺の荒地を開発し,同地は田町・台町の開発地とともに熊倉分と称された。天保14年将軍日光社参に際して,3月朔日から4月29日まで日光街道徳次郎宿で助郷を勤めた。勤高は869石余(県史近世3)。「改革組合村」では田町・荒町として真岡町組合寄場に属し,天保年間の家数210。享保年間頃下町の塚田弥左衛門は藩に御用金を上納して頭百姓となり,塩屋・穀屋の営業を許可された。当町には真岡木綿の買次問屋(渋川屋・塚田屋)があり,木綿取引の中心地として文化~天保年間には全盛を極め,文化15年真岡代官に委嘱されて巡講中の心学者大島有隣が当町に来た時に「荒にける其あら町も今はこの真岡の布の市の繁昌」と詠んだほどであった。渋川屋は安永2年西郷村の小宅喜兵衛・平七兄弟が創業したもので,同5年藩に300両献金した功労により頭百姓となった。その末孫小宅高保(号文藻)は水戸で立原翠軒に漢学を,千種有功に和歌を,谷文晁に画を師事し,幕末期には尊王攘夷運動を担った文人でもあった。大和屋の安達元善(号三楽斎)は代々薬種商であったが,水戸で会沢正志斎・立原翠軒に学び,杏所・文晁に画を師事した画人としても知られる。火災は,元禄3・4年をはじめ,明治2年小間物商近江屋から出火している。慶応4年当町でも激しい打毀が生じた。寺社には,もとは西郷村にあったと伝えられる時宗長蓮寺,出世稲荷神社・稲荷神社がある。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。明治4年当町全域に大火が起こった。同6年田町から警察掛出張所が薬師堂内に移転してきたが,同8年台町に移転した(真岡の歴史・県史近世3)。明治7年長蓮寺を借用して,登高学舎設置,同12年登高学校,同18年真岡学校,同20年真岡尋常小学校となる。明治15年当町に属した熊倉分の地は田町・台町の熊倉分とともに熊倉町となって分離。明治22年真岡町の町名となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7277608