下野国

「慶安郷帳」によると,高61万8,592石余,村数1,118,「元禄郷帳」では,高68石1,702石余,村数1,361と石高,村数ともに増大。「天保郷帳」では,高76万9,905石余,村数1,365と,とくに石高の増大が著しい。石高の上から言えば,元禄年間以降,近世後半期にもかなりの高の増大がみられたことになるが,それがそのまま領主の収納高の増大や民富の形成に結びついたものではない。元禄~享保年間の検地や新田改めによって一時期,たしかに石高の増大が生じ,収納高の増大もみられたが,逆に宝暦・明和年間頃から顕著になった農村荒廃現象によって,近世下野国の人口は中期から後期にかけて減少し,各地で田畑の手余り地・荒地化の傾向さえみせる。したがって,順調な石高の増大と,荒廃現象との間の乖離が生じる。そのことが,領主財政を逼迫させ,民衆を過重な年貢・諸役の負担によって苦しめる原因であった。天正18年,徳川家康の江戸討入りの時点では,下野国は未だほとんど徳川氏の勢力圏にくみ入れられてはおらず,家康の付庸大名とされた皆川広照を除けば,中央部の宇都宮氏,那須の大関・大田原・那須・成田氏,塩谷郡の喜連川氏,都賀郡の結城氏,安蘇の佐野氏などすべてが外様旧族大名であった。その後,慶長年間末期から元和・寛永年間にかけての転封・改易によって旧族大名や,豊臣氏取立の大名が後退し,徳川氏譜代の大名が大幅に進出して,下野国における幕藩制的支配秩序が形成される。「寛文印知集」によれば,下野国内に城地を有する大名7藩のうち,宇都宮藩(奥平)・壬生藩(三浦)・鹿沼藩(内田)・皆川藩(松平)の4藩が譜代大名であり,国外に城地を有する譜代藩である古河藩(土井)・岩槻藩(阿部)・小田原藩(稲葉)・彦根藩(井伊)などとともに,下野国の中心勢力をなすに至った。下野国内の外様大名としては,黒羽藩(大関)・大田原藩(大田原)・烏山藩(堀)の3藩があったが,とくに黒羽・大田原の両外様大名は,小藩ながら,天正年間からの旧族大名として,維新期まで領知を続けた点で,きわめて特色ある存在であった。そのほか,古河公方の伝統を汲むものとして,寄合旗本ながら10万石の格式を与えられた喜連川氏の存在,東照大権現をまつる幕府の聖地につくられた日光神領の存在も,近世の下野国を特色づけるものであった。中期まで続いた大名の頻繁な上知・転封によって,大名の旧領が,幕府や旗本領に分割,細分化されてゆき,1村が複数の領主の知行所に分割される,いわゆる相給支配の状況が下野国南部を中心に形成された。「旧高旧領」によれば,維新期の石高は76万326石余,村数は1,403,領知別石高の割合は,大名領50.6%・旗本領34.6%・幕府11.3%・寺社領3.5%。相給村は全体では337(24%)であるが,南部の梁田郡では62.1%・足利郡60.9%・安蘇郡42.2%・芳賀郡32.3%・下都賀郡30.4%と比重が高い。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7279366 |





