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高徳村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。塩谷郡のうち。はじめ宇都宮藩領,寛延3年下総佐倉藩領,明和元年宇都宮藩領,慶応2年からは高徳藩領。高徳藩は,慶応2年山陵奉行の戸田忠至が宗家戸田忠友(宇都宮藩主)から宇都宮藩領内の本田7,000石・新田3,000石の計1万石を分与されて諸侯に列し,当地を本拠として立藩したもの。当地内に陣屋が置かれた。村高は,「慶安郷帳」177石余(畑のみ),「元禄郷帳」250石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに252石余。「改革組合村」では高徳村組合寄場に属し,天保年間の家数32。本年貢のほか,大豆・油荏など畑方掛物や国役があり,さらに山家役として笹板134束を納め(星家文書),炭焼など林業の運上金も多種類あった。神社は字新林にある諏訪神社ほか八坂神社など7社。寺院は字宮ノ腰に曹洞宗保寧山玉川院高徳寺がある。享保8年の五十里【いかり】洪水は当地周辺の村々に大きな被害を出したが,当村辺りから鬼怒川の峡谷が深く広くなるため,わずかに河岸の畑に浸水があった程度で,被害は軽少であった。江戸初期会津藩の整備した会津西街道の宿駅でもあった。江戸期を通じて他街道との商品運輸の争論,あるいは会津西街道内部に成長してきた仲附との争論に際しては,隣接の藤原・大原宿などと常に同一行動をとってきた。特に天保年間以降,鬼怒川の対岸に会津~日光間の捷路である小佐越新道が開通すると大打撃を受けたが,嘉永・安政年間の激しい争論を経て,安政4年には藤原・大原・高徳宿などが宇都宮藩の指導を得て鬼怒川最上流の西船生河岸開設を実現し,会津西街道の劣勢を挽回した。当村では安政4年1月末~2月末に,河岸場の浚渫人足を延べ32人出している(星家文書)。地内豊徳・南沢などには江戸期に発見されたと伝えられる鉱山があり,南沢は高徳藩主戸田忠至が掘ったという。文久2年幕府は,攘夷断行による万一の海上封鎖を恐れて,会津盆地から今市御蔵へ非常米を運ぶ道路として,会津西街道の高原峠越えを回避する栃久保新道を開発したが,この時,字堂ノ前からの細道が拡張され,中岩橋もつくられ,それまで渡船によっていた今市方面への交通が容易になった。当地方では凶作などで農業経営の危機が到来した時,日光領では禁じられている竹木の伐採を認められ,百姓持林の木を売り出し,または他領の材木を買い集めて江戸へ売りに出す余業が開始され,文化4年の筏仲間議定では西船生村・高徳村代兼として仙之助の名が,天保5年の売木仲間組合規定では6名の百姓の名が見える(県史近世6)。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。同8年学校は大原学校へ連合。明治22年藤原村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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