那須郡

那須郡の地域は,那須国造系の子孫と考えられる那須氏が山内首藤(須藤)氏と姻戚関係を持ち,その系を称して勢力を張っていた。中世に那須郡と明確に記した史料は見あたらない。一方,乾元2年3月6日の外宮庁宣写に「下野国那須北条郡内薭田〈付盞堵村〉并佐久山御厨」とあり(鏑矢伊勢方記),那須北条郡という郡名が見える。那須北条郡は単に北条郡とも記され,那須町伊王野の専称寺蔵の善光寺式阿弥陀如来像背銘に「下野国北条郡那須庄伊王野郷 文永四年丁卯五月 日 仏師藤原光高左衛門尉藤原資長也」とある(とちぎの文化財)。また,康安2年4月15日の某資高譲状には下野国那須北条郡が見える(結城小峰文書/県史中世4)。那須北条郡とは,平安末期那須郡内に那須荘・固田荘が成立し,残った国衙領が北条と南条に分割され,このうち北条が那須北条郡と称されたものか。ただし,南条に関する史料は見えない。「吾妻鏡」建久4年3月9日条に「那須太郎光助拝領下野国北条内一村,是来月於那須野可有御野遊之間,為其経営被宛行之云々」と見え,那須光助が那須野の経営料として下野国北条内の1村を拝領しているが,この場合の北条とは那須北条郡を指す。また,室町期と推定される年未詳10月28日の足利成氏書状写に「旗由緒之事,従与一宗隆三世孫肥前守頼資時代〈初名光資〉建久四年癸丑四月頼朝卿那須野狩之時……光資自討留野狐・大熊,……為加恩下賜同国北条之庄者也」と見え,建久4年4月源頼朝が那須野で狩を行った時,那須頼資が野狐と大熊を討留めたため,頼資は頼朝から北条荘を充行われたという(那須文書/県史中世2)。北条荘は那須北条郡の別称と推定される。平安末期に那須郡には那須荘・固田荘が成立した。那須荘は鎌倉前期,貞応3年直後に作成されたと推定される年月日未詳の宣陽門院所領目録に「新御領〈自上西門院被進之〉……下野国那須庄〈上庄・下庄〉」と見え,那須荘は鎌倉前期には上下に分立している(島田文書/県史中世4)。本文書によれば,那須荘(上荘・下荘)は平安末期に鳥羽天皇の皇女統子内親王(上西門院)の荘園として発足し,上西門院から後白河天皇の皇女覲子内親王(宣陽門院)に譲渡されたことがわかる。この際,現地で開発・寄進したのは,古代以来の豪族那須氏である。固田荘は,暦仁元年12月3日の四条天皇綸旨案に「同(日吉三社)十禅師宮四季大般若䉼下野国固田庄」と見え,円基から円尊に相伝された天台座主領の1つで,日吉三社十禅師宮の四季大般若料所にあてられていた(勝尾寺文書/県史中世4)。「吾妻鏡」文治5年7月28日条によれば,藤原秀衡追討に向かう源頼朝は,同年7月26日宇都宮をたち,7月28日に新渡戸駅に着いている。同駅は当郡内,現在の黒磯市越堀付近に比定され,平安末期には古代の東山道とは別に新しい駅路が出来ていたことが知られる。鎌倉期には,承久2年12月那須資隆の子朝隆が当郡内の薭田・佐久山の地を伊勢神宮の権禰宜度会神主常生に寄進し,薭田御厨・佐久山御厨が成立した(鏑矢伊勢方記)。那須氏は鎌倉期以来,那珂川流域の各地に一族を分出していったが,室町期,上杉禅秀の乱以降に那須資之・資重の2系統に分裂し,前者は那須上荘,後者は那須下荘に勢力をもち抗争した。上那須氏は福原城,下那須氏は烏山城を拠点としたが,永正年間に上那須氏が家臣の大田原氏らの策謀によって滅亡したため,下荘の那須資房が上下を統一して当郡一帯を支配し,宇都宮氏や佐竹氏と抗争を繰り返した。一方,「和名抄」の茂武郷の地は室町期になると武茂【むも】荘と称され,白河結城氏の勢力が及んでいたが,戦国期の永禄年間以降は佐竹氏の勢力下に置かれた。なお,那須北条郡の郡名は室町期以降見えなくなり,代わりに那須荘が郡全体の呼称として使用されるようになる。天正18年那須資晴は小田原に参陣しなかったため豊臣秀吉から所領を没収され,秀吉はその子資景に天正18年10月22日と翌天正19年5月6日に改めて那須荘内で合計1万石を充行った(那須文書/県史中世2)。一方,武茂荘域は佐竹領となり,文禄3年12月太閤検地が行われている。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7280065 |