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塙村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。芳賀郡のうち。はじめ真岡【もおか】藩領,寛永9年相模小田原藩領,天明3年からは幕府領。村高は「慶安郷帳」では墫村と見え461石余(田229石余・畑231石余),「元禄郷帳」912石余,「天保郷帳」1,041石余,「旧高旧領」1,029石余。助郷は,日光法会の折には日光街道雀宮宿の加助郷,日光社参の折には同街道徳次郎宿の加助郷を勤めた(益子の歴史)。天保14年の徳川家慶の日光社参に際し,当村は59日間にわたる会津西街道大桑宿詰めを命じられたが,代金納としている(県史近世3)。「改革組合村」では益子【ましこ】村組合寄場に属し,天保年間の家数38。安政3年の家数114(飯塚家文書/益子の歴史)。寛政5年七井村との間に秣場と山崎川用水堰をめぐって争論があった(小菅家文書/益子の歴史)。幕府真岡代官所の代官竹垣直温は荒廃の進む村々への復興仕法の一環として心学教化運動をとり入れたが,文化15年には直温を継いで代官となった竹垣直清に託された心学者大島有隣が幕府領内を巡村し,当村にも立ち寄って「里あれて木履もいらぬ塙村人なき里を起す竹垣」という歌を残している(県史近世3)。文政10年の村高1,028石,反別221町,うち畑方167町歩,人口544,うち男278・女264・出家2,馬数59,宿問屋2軒,村役人4,定使1,年貢は米88石余・永48貫450文3分(下草木葉山運上金などの小物成も含む),農間に男は木こり・秣刈,女は木綿打を行った。また,廻米は鬼怒【きぬ】川柳林河岸から江戸へ積み出し,田植えは5月に早稲米から始まり7月初旬に晩稲米を終了し,秋の土用入から稲刈を始め,畑では麦・粟・稗・木綿・大豆などを作る。嘉永6年の定免年貢割付では米95石余・永55貫437文8分(益子の歴史)。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。明治5年の反別は田67町・畑175町・屋敷2町・林69町・秣場98町・その計325町6反余,同10年の戸数109・人口828(男421・女407),馬数73,農業を主とし,女は農間に機織を行い,農業を営むほかに酒造2戸・旅店安泊3戸・質屋1戸・鍜治屋2戸・屋根葺6戸・大工4人があった。また,用水は小貝川上堰・下堰から引水,溜はアサカイ溜・サフガ溜・金毘羅溜があり,神社には春日神社(村社)・星ノ宮神社(村社),寺堂には曹洞宗明林寺・同宗閑空院・真言宗不動院・薬師堂・不動堂があるほか観音堂が2か所にあり,真言宗法眼寺は明治6年廃寺となった(地誌編輯材料取調書)。小学校は塙・東田井・清水の3村が連合して明治8年字東側に塙学舎を創設。教員1・授業生2,生徒は塙村男51・女17,東田井村男11・女3,清水村男13。のち塙学校と改め同18年益子小学校に合併となる。明治22年益子村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7280369