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前沢村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。芳賀郡のうち。はじめ旗本松平美作守知行,「慶安郷帳」「元禄郷帳」では幕府領,元禄16年からは下総結城藩領。村高は,「慶安郷帳」877石余(田281石余・畑587石余・茶畑2石余),「元禄郷帳」でも877石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに878石余。「改革組合村」では益子【ましこ】村組合寄場に属し,天保年間の家数28。安政3年の家数41(飯塚家文書/益子の歴史)。助郷は奥州街道白沢宿と,日光街道小金井宿へ臨時に出役。貞享4年当村および大郷戸・小泉・長堤の4か村と上山村の間で田野郷内の入会山をめぐって山論が起き,評定の結果,不正があばかれた当村はじめ4か村の名主は村外へ追放された(大山家文書/益子の歴史)。享保9年山本村との間に境界をめぐる争論が起きた(県史近世3)。文政7年梅川用水をめぐって上山村と争論を起こした(高橋家文書)。安政3年の大風では村内41軒のうち8軒が破損し,松林の松89本が根本から倒れた(飯塚家文書/益子の歴史)。慶応4年には下総野鎮撫府の命によって,新政府軍の奥州進出のため,白河口へ人足10人,村役人1人を出役させる。同年当村をはじめとする5か村の百姓2,000人が「世直し大明神」の蓆旗を揚げて村々を打ち壊したのち,上山村普門寺に屯集,黒羽藩兵と衝突している(鯉淵家文書・田野村郷土誌/益子の歴史)。明治2年の村明細書によれば,戸数43・人口290(男142・女145・僧侶2・山伏1)。反別は88町1反9畝28歩あり,畑方が70%を占める。田は上・中・下・下々田に分かれ,中・下田の割合が高い。畑は上々から下々まで8等に分かれ,外に屋敷4町余がある。そのほか高札場1か所,秣場は長堤村など5か村の共同入会地を大郷戸村内に持つ(高橋家文書)。神社は八坂神社など6社があり,寺院は時宗遊行派の長谷寺,天台宗成就院がある(田野村郷土誌)。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。明治22年田野村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7280727