真岡(中世)

南北朝期に見える地名。大内荘のうち。文和4年正月28日の如来堂修理料差文に「二十五疋 まほか空円」と見え,如来堂の修理に際して当地の空円が25疋(250文)を負担している(専修寺文書/県史中世2)。如来堂とは専修寺のこと。「芳賀系譜」によばれ,芳賀高貞に「此代ニ五所ヨリ引越」と注記されており(県史中世4),南北朝期に高貞は真岡城を築き,以後当地は室町・戦国期を通じて宇都宮氏の一族芳賀氏の本拠となった。戦国期に入って,天文年間宇都宮俊綱(尚綱)は壬生氏の処置をめぐって芳賀高経と意見が対立し,天文8年8月飛山城で高経を殺害した。高経の子高寺は白河に逃れ,次いで宇都宮氏と対立していた那須高資を頼った。天文18年那須攻めに出陣した宇都宮尚綱勢と,これに応じる那須高資勢は,塩谷郡喜連川【きつれがわ】で対決し,喜連川の五乙女坂の合戦で宇都宮尚綱は討死している。この合戦で宇都宮勢は敗れたが,芳賀高定は尚綱の子息広綱を護り,真岡城に拠って那須氏と対立を続けた(宇都宮市史)。天文年間と推定される年未詳正月12日の芳賀高定書状に「真岡へ屋形さま御移以来,無二忠信被存候義と云,又自以前も懇向之筋目と云,毛頭別義ヲ不可存候」と見え,高定が小宅高尚に対して,宇都宮広綱の真岡移城以来の忠信を賞している(小宅文書/県史中世1)。弘治3年と推定される12月11日の北条氏康書状に「今度就壬生退治,其口手切之儀申届候処,早速御合点,殊近口向塩谷被揚火先由候,御入魂之至畏入候,抑壬中降参宮中并真岡之旧領悉可相渡由申ニ付而,其分可落著由存候」と見える(那須文書/県史中世2)。芳賀高定は宇都宮城にあった壬生綱雄を攻めこれを破り,綱雄は宮中と真岡の旧領を宇都宮方に渡し,高定は宇都宮広綱とともに再び宇都宮城に戻った。以後,広綱が宇都宮城主となり,芳賀高定が彼に協力するという形をとり,真岡城は高定の家臣の在番となったものと思われる。永禄7年8月13日芳賀高定は生田目氏に真岡在城の給分としての坂戸郷の土貢1,000疋(10貫文)を与えている(家蔵文書/県史中世3)。本文書には「番・普請・陣参以下嗜可為専用」とあり,生田目氏の在城は臨時的なものではなく,恒常的なものであった。天正年間に入ると,当地方には小田原北条氏の進出があり,天正12年と推定される5月23日の慈心院尊紹書状写によれば,北条氏直が宇都宮国綱を攻めたため,国綱は当地まで出陣し,佐竹義重・結城晴朝の援助を受けている(石崎文書/県史中世1)。天正18年と推定される関東八州諸城覚書には「もう賀ノ城〈波賀十郎〉」と見え,当時の真岡城主は芳賀高規であったと思われる(毛利家文書/県史中世4)。文禄元年高規の死後芳賀氏は宇都宮国綱の弟高武が継ぐが,慶長2年10月宇都宮国綱は改易となり,当地も芳賀氏の支配を離れた。年未詳9月4日の宇都宮隆綱書状写によれば,芳賀高武の知行高は6万石と伝える(家蔵文書/県史中世3)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7280948 |





