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百村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。那須郡のうち。天正19年5月6日の那須資景知行目録では「もむら」と見え,「下あな沢」とともに269石7斗2升とある(那須文書/県史中世2)。また,「下あな沢」「上あな沢」は百村と区別されているが,江戸期には当村の一部として把握され,郷帳類には見えない。はじめ那須藩領,寛永20年頃からは幕府領。村高は,「慶安郷帳」777石余(畑のみ),「元禄郷帳」663石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに677石余。「改革組合村」では百村組合寄進に属し,天保年間の家数107。通称百村新田は江戸初期に開発されたものと思われる。寛永年間に幕府領である百村・木綿畑・鴫内・湯宮の4か村入会の山地をめぐって,大田原藩領の蟇沼・関屋の2か村との間に境界争い(中通山論)が起こったが,万治3年に解決した。また,これら4か村は黒滝山頂上に黒滝権現を祀り,盛んに参詣した(黒磯市誌)。元禄8年会津中街道が村内を南北に開削されると,継立場が設けられ街道沿いに集落が形成された。宿場は北から古宿・中町・新宿に区分される。文化年間のそれぞれの家数は古宿14・中町22・新宿21の計57軒。また,元禄8年道法駄賃覚によれば,百村~坂室村の距離1里2町余,駄賃は本馬1疋につき32文,軽尻1疋につき20文(同前)。宝暦13年頃木の俣川から当村の一集落である穴沢まで穴沢用水が開削され,飲用水として利用された。明和8年同用水は約10km離れた前弥六方面まで延長され,また細竹方面に分水路も開かれて重要な用水路となった。文化7年には幕府代官山口鉄五郎がこの用水を改修して多くの水田を開いた。この時当村でもある程度の水田が開かれたが,3年間植付けても収穫が皆無であったため水田はあきらめられた(同前)。寺院には永正9年開山の曹洞宗光徳寺,天正10年開山の真言宗東福寺がある。明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属。同6年穴沢小学校の前身である又新学舎が創立。同12年の戸数107・人口613。また,同年の主要農作物の作付面積は,稗58町余・大麦31町余・小麦30町余・荏9町余・大豆7町余・粟と芋6町余(那須山麓の民俗)。明治22年高林村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7280981