山川村(近世)

江戸期~明治22年の村名。足利郡のうち。はじめ幕府領,明暦年間大名土井利長領,寛文3年幕府領,天和2年幕府と旗本原田・山崎・松平氏の相給,元禄2本橋本六角・原田・山崎・松平氏の相給,延享2年幕府と旗本六角・松平氏の相給を経て,享保元年からは旗本喜多村・六角・松平氏の相給。村高は,「慶安郷帳」446石余(田123石余・畑332石余),ほかに長林寺領20石,寛文5年の検地高743石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」ともに763石余,「旧高旧領」742石余(六角雄次郎384石余・松平三陽彦256石余・喜多村竜三82石余)。「改革組合村」では北猿田【きたやえんだ】村組合寄場に属し,天保年間の家数146。寺社は,上野国甘楽郡轟村宝積寺末の曹洞宗福聚山長林寺(足利坂東三十三か所観音霊場第12番札所),助戸村竜泉寺末の天台宗川流山東光院観音寺(足利坂東三十三か所観音霊場第11番札所),鎮守の白鬚明神などがある(永瀬家文書・地誌編輯材料取調書)。長林寺では幕末から明治初年にかけて僧鼎真厳が寺子屋を開いた(近代足利市史)。当村は足利町近在では五十部【よべ】村と並んで機織りが盛んで,慶応3年の「足利組織屋連名帳」では織屋数29(同前)。潅漑用水は大久保村ほか6か村と共同で袋川から引水した。嘉永元年には用水源の袋川沿いの字城之腰に取戸村が板堰を設けたことから,助戸村と当村ほか6か村が「城之腰用水一件」と称する争論を展開した。文久元・2年の渇水対策としては番水の刻割を実施した。安政6年~明治元年には旗本六角氏の家政改革・知行所支配をめぐり,当村名主藤七郎が中心となり,足利郡・安蘇郡の知行所7か村が団結して六角騒動を起こしている。名主は弘化年間に嘉四郎,慶応年間には惣兵衛・亥之助が勤めた。明治4年栃木県に所属。「地誌編輯材料取調書」によれば,村の規模は東西8町56間・南北14町58間,面積160町7反余,同5年の地目は田15町1反余・畑55町余・屋敷6町2反余,同8年の人口985(男490・女495),馬数8,漁船8,人力車,荷車25,神社10・寺院2,職業は男は農業・機業,女は機業で,物産は綿琉球・木綿白縮・結城縞などで織物数11万反,ほかに大工2・質屋1・屋根葺2がおり,各用水の潅漑面積は,上田堀8町6反余,海老田川7町4反余,溜池(1か所)3町余。学校は明治6年北猿田村共励学校の学区となったが(通学生徒数50),不便を理由に同7年あらたに観音寺を仮校舎として山川学校を創立し,生徒98(男53・女45),山川学校は同14年簡易小学校を経て,第20年山川尋常小学校となる(毛野小百年のあゆみ)。明治22年毛野村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7281081 |