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木崎(近代)


 明治22年~現在の大字名。はじめ木崎町,昭和31年からは新田町の大字。明治24年の戸数307,人口は男750・女937,学校1・水車場1。同43年の戸数313。地内中心部,日光例幣使街道沿いに人家が密集し,明治期から街の形態をもち,周囲に農村集落があり,農商業で成り立っている。明治30年,木崎尋常小学校に高等科を併設し木崎尋常高等小学校と改称,同45年字北側に校舎を新築,大正元年から授業を始める。現在の木崎小学校である。明治43年に東武鉄道伊勢崎線が敷設され木崎駅ができる。駅の設置については尾島町と引合いで一騒動あったという。大正14年木崎~徳川間に東武の定期バスが開通。太田区裁判所木崎出張所が置かれた。明治26年全国に先がけて公娼を廃止するという廃娼令が公布され,玉村・板鼻・坂本・川俣・一の宮・倉賀野とともに存娼運動を続けてきた木崎も,長い年月の物語を秘めて灯を消すこととなった。木崎宿の歴史がこの時点で終わった。昭和25年に町役場・農業会・郵便局をはじめ,民家を含む大火災が起き,公共機関は一切の書類を焼失。木崎の火災は発生すると大火になると言い伝えられている。昭和22年に字花園に中学校が,同36年に公民館が建設された。民俗芸能として伝承される木崎音頭は,木崎節あるいは木崎口説節として江戸期から謡い伝えられてきた。この元歌や伝播については諸説があるが,越後蒲原地方に発生した農民口説によるもので,リズムは越後の新保広大寺節というのが定説とされる(新田町誌)。現在は毎年8月に木崎小学校校庭で行われている。歌にうたわれる色地蔵は,長命寺門前の御堂の中に祀られている。寛延3年寒念仏供養に建てられたもので,木崎宿が栄えた当時,女たちのお参りで香華が絶えなかったといわれる。昭和17年頃字一丁田北の水田から丸木舟が発見された。耕地整理中の発見で,往古この地帯が広範な湿地帯であったとの伝承とかかわりがある。昭和38年宝泉村上田島の一部を編入。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7282495