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桐生郷(中世)


 南北朝期~戦国期に見える郷名。山田郡のうち。貞和5年8月28日の将軍足利尊氏袖判下文写(新居文書/県史資料編6)に「下 桐生又六法師〈法名行阿〉可令早領知上野国桐生郷堤村内田三町五段小,在家弐宇,屋敷壱所事」と見え,桐生又六法師の勲功を賞して当郷堤村内の田地および在家・屋敷などを宛行っている。応永27年8月19日の足利持氏袖判下文写(新居文書/群馬県古城塁址の研究)には「上野国山田郡桐生五拾六郷之事」と見え,当地内56か郷の地頭職を,桐生蔵人太郎に宛行っているが,この文書は検討を要する。「吾妻鏡」の養和元年閏2月25日条によると足利忠綱の郎従として「桐生六郎」の名が見え,桐生氏は当地を名字の地としたと推定される(国史大系)。享徳年間頃と推定される年未詳3月14日の赤堀政綱宛足利成氏書状(穴沢吉太郎氏所蔵赤堀文書/県史資料編7)に「桐生内之事并御方中押領事者,令参上者即可仰付候」と見え,赤堀氏が当地内に有していた所領が押領を受けていたことが知られる。また赤堀氏は享徳の乱には古河公方足利成氏方についたことがわかる。文明4年12月23日の芝定俊旦那売券(熊野那智大社文書/同前)には「永代売渡申旦那識(職)事 合四貫文者……〈ひし・きりう両里〉」と見え,当地の旦那職を4貫文で南光坊に売り渡している。永正竜集(18年)4月吉日の年紀を有する西方寺阿弥陀如来座像銘(造像銘記集成)に,「上州桐生郷宝樹山西方禅寺」と見え,佐野(桐生)助綱を大旦那として本尊の彩色を完了した旨が記されており,桐生氏の菩提寺である西方寺は,これ以前に建立されていたことが知られる。また永正6年に成立した「松陰私語」には応仁元年頃の師島(現伊勢崎市)合戦の際上杉方岩松家純の家臣横瀬主税助は当地まで進出したことが記されている(県史資料編5)。下って永禄4年の成立と推定される年月日未詳の関東幕注文(上杉家文書/県史資料編7)には「桐生衆」の桐生殿・薗田左馬助など9名が記されている。同4年2月10日の由良成繁書状(彦部文書/同前)には「今度桐生之前引切,御忠節無比類候」と見え,彦部弥太郎に対して当地の合戦における忠節を賞している。同7年と推定される年未詳卯月8日の上杉輝虎書状(上杉輝虎公記所収楡井文書/同前)では,同年越山して沼田倉内城に着城した輝虎が,長尾政景に対し,小山・佐野など下野【しもつけ】方面の諸氏の動向とともに「桐生事者令出仕候」と長尾政景に伝えており,当地の桐生氏は,上杉方に従っていることが知られる。「長楽寺永禄日記」永禄8年9月9日条には「泉・郭ヲハ桐生之町へ遣也」と見え,当地が町として発展している様子が知られる(長楽寺所蔵/県史資料編5)。「関八州古戦録」によると当地には桐生氏の居城があった。「関東行軍録」には天正元年由良氏により桐生氏が滅ぼされ,同城は由良氏の属城になったことが記されている(山田郡誌)。天正2年と推定される年未詳3月27日の北条氏政書状写(内閣文庫所蔵富岡家古文書/県史資料編7)によれば,上杉輝虎が「桐生陣」を払い羽生口に下るという知らせがあったことがわかり,同年と推定される年未詳卯月25日の北条氏政書状(東京大学文学部所蔵由良文書/同前)に「今度越衆出張,桐生・金山向両地数日令在陣候処,城々堅固ニ被相拘,一途之被及防戦故,輝虎早々敗北」と,当地を攻略した由良氏が小田原北条氏方として同城をおさえていたことが知られる。しかし同年と推定される年未詳5月4日の北条氏繁書状(並木淳氏所蔵文書/同前)には「去月十日号桐生地へ兵糧可指入擬を以,越衆□□□□(候カ)処……兵糧一粒も城中へ不入得,剰翌朝退散候」と見え,上杉氏は一時的に当地を攻略したが,即日北条方により退却させられたことが知られる。同年と推定される年未詳5月30日の上杉謙信書状(田中文書/同前)では「渡瀬(渡良瀬川)ヨリ新田・足利へ懸ル用水候,是ヲ切落候得者,新田・館林・足利迄成亡郷由申候間……堰四ツ切落,昨日広沢へ引返候,今日ハ桐生之田畠為返候」とあり,北条丹後守父子の言葉に従い用水を切り落とすなどの工作により当地域をめぐる攻防が続けられている。またこの頃と推定される年未詳5月26日の富岡氏宛と推定される北条氏邦判物(原文書/同前)には「従桐生領分小泉領分へ,自前々懸来候用水,有横合可切落之由候,惣別当方御法度ニ候」と見え,当地から得ていた用水が切り落とされたため,小泉領の富岡氏が,小田原北条氏に訴えていたことがわかる。天正5年と推定される年未詳3月28日の梶原政景書状写(歴代古案/同前)には「伊勢崎之儀者,従南方入念候条……何篇新田・桐生手詰,不及是非由候」とあり,伊勢崎の普請をすすめる小田原北条氏に対処するため謙信の越山と当地域への進攻を要請している。天正12年9月3日には,松井豊後守・同新左衛門尉・須藤主計助・目黒織部丞・前原淡路守・深沢二郎右衛門・尾池司馬丞・阿久沢能登守などに対して,北条氏直が感状を発給しているが,これは由良氏攻めの際,「新田・桐生」を守っていた前記の諸将が深沢(現黒保根村)を包囲し,同地での戦功を賞したものである(小田原編年録附録4・松井文書・須藤文書・目黒文書・前原文書・深沢文書・渡辺文書・京都大学所蔵阿久沢文書/県史資料編7)。同年と推定される年未詳10月16日の北条氏直書状写(目黒文書/同前)に「自桐生藍(足)尾・黒川相働処,及防戦敵数多討捕」と見え,阿久沢能登守の勲功を賞している。天正13年極月7日の極楽院鎮良判物写(極楽院文書/同前)には「桐生之惣年行事職之事,如前々任置了大寺へ候」と見え,了大寺に対し上野【こうずけ】国の年行事職を持つ極楽院から当地の惣年行事職を預け置かれている。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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