草津村(近世)

江戸期~明治22年の村名。吾妻郡のうち。はじめ沼田藩領,天和元年から幕府領。なお,天正18年12月21日の真田信幸から湯本三郎右衛門尉宛の知行宛行状(熊谷家文書/県史資料編11)があり,「今度其方知行 就改,本百廿五貫文之所,百八拾仁貫文ニ令検吏候,右之外草津百貫文,合仁百八拾仁貫五十文如此出置候」と見える。また同月同日付で湯本三郎右衛門尉同心31人への信幸宛行状も出されている。湯本氏は寛文5年断絶するまで,草津温泉の支配権を握っていた。村高は,「寛文郷帳」で畑方78石余,「元禄郷帳」44石余,「天保郷帳」50石余,「旧高旧領」も50石余。なお当村は万治2年の村高78石余(平形家文書/県史資料編11)から,寛文2年の真田氏検地で412石余に打ち出されたが,真田氏改易後,貞享元年幕府検地が行われ,同3年の検地帳で44石余,明和元年の検地で46石余となった(湯本家文書/草津温泉史)。戸口は,貞享3年130戸,明和元年150戸・807人,馬75,天明8年182戸・717人,馬75(市川家文書/草津温泉誌)。また文政2年181戸・738人,馬32,同11年181戸・961人,天保12年181戸・681人,馬20・牛2(湯本家文書/同前)。明和元年の草津村・前口村・小雨村三か村明細帳(市川家文書/県史資料編11)によれば,寒国のため麦作が出来ず,畑に粟・稗・大根・蕎麦ばかりを蒔付けるとし,村民は3月から10月までの湯治人を相手に村中湯宿渡世とある。ただし文政11年には,湯宿以外の商売として居酒屋渡世17・髪結3・煮売渡世7が数えられる(湯本家文書/草津温泉誌)。なお当村の村役人は小雨村・前口村の村役人も兼帯した。当村あたりの冬の寒気は殊のほか厳しいため,湯宿なども夏の間だけ営業し,冬期は標高800mの小雨村付近まで下って生活する,冬住みの習慣があった。しかし明治期になると,住居や食料貯蔵を工夫して越冬する人々が現われ,交通の便が良くなっていったことも手伝い,次第に通年営業する湯宿が増えた。江戸期には佐久間象山・鈴木牧之らも訪れ,小林一茶は文化5年の入湯の際に「湯けぶりにふすぼりもせぬ月の貌」の句を残している。文政2年には十返舎一九が善光寺から草津を訪れ,「草津道中金草鞋」を書いている。明治期には,尾崎行雄・原敬らの政治家,長塚節・田山花袋・志賀直哉らの小説家や,ベルツなどの外国人も入湯している。特にドイツ人医学者ベルツは草津温泉を絶賛し,その環境や薬効を広く内外に紹介した。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。「郡村誌」によれば,温泉は浴場17で旅館79,1年の浴客8,000人とある。なお神社には,上野国神名帳(県史資料編6)に従一位と格付けされている白根神社がある。祭神は日本武尊。旧社は白根山頂に鎮座していたが,明治6年郷社となるに際し,活沼神社など8社を合祀し,もと遥拝所であった現在地へ社殿を建立した。明治2年温泉街をほぼ全焼する大火があった。同7年生徒数67で寺院を借用して草津小学校開校。同22年草津村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7282551 |





