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黒川村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。甘楽郡のうち。はじめ小幡藩領,明和4年幕府領代官支配,同5年から小幡藩領。村高は,「寛文郷帳」で532石うち田方465石余・畑方66石余,「元禄郷帳」も同高,「天保郷帳」772石余,「旧高旧領」も同高。嘉永元年の当申御年貢割付之事(高橋家文書)によると,本田が高726石余,反別77町9反余うち田方39町3反余・畑方38町6反余,年貢額は米241石余・永64貫余,新田が高45石余,反別13町2反余うち田方2反余・畑方13町余,この年貢額米1石余・永7貫余で合計米242石余・永72貫余,ほかに林反別8町4反余の永3貫余と漆役52文がある。屋敷地と林については,享保11年の屋敷并林御改写帳(同前)によると,正徳4年改で,屋敷合計3町2反余,開発屋敷2町3反余,上林1町4反余・中林7反余の合計2町1反余,御用藪8反余とある。また新田開発については,享保12年の開田畑御水帳(同前)によると,寛文3年の畑方総反別8町5反余,延宝4年には田・畑・屋敷・山畑など合わせて1反余,貞享3年合計8反余,宝永4年合計4反余などと開発されていった。戸口は,文化・文政年間頃かと推定される年不詳の小幡領村々石高・人数・年貢等書上帳(松浦家文書/県史資料編9)によると,家数125・人数508,なお寺院に天台宗雨宮山西光寺,同宗で無住の黒川山不動寺があった。文久2年の村高家数人別書上帳(高橋家文書)によると,家数50,人数278,うち男134で,その内訳は村役人百姓惣代9,60歳以上および15歳以下82,病者17,御伝馬并領主役触当之者1,他所奉公出の者9など,女144,馬7。文久2年の村役書上帳(同前)には,当村民の農間余業として,男が縄ないと薪取り,女が養蚕による絹織りとあり,作物は五穀のほか煙草を少々作り,そのほか作物は一切ないとある。助郷は中山道松井田宿へ出役。その人足数と馬数は,文久2年の御伝馬勤高書上帳(同前)で,安政4年が2,689人・876頭,同5年2,744人・811頭,同6年2,074人・845頭,同7年2,375人・518頭,万延元年2,375人・518頭とある。なお幕末の改革組合村高帳では,七日市村・一宮町両寄場組合に属し,高772石余,家数93。明治4年小幡県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県北甘楽郡に所属。神社は字雨ノ宮に雨宮神社があり,末社は諏訪社・菅原社・稲荷社・庖瘡社。雨宮神社は榛名神社の分社といわれる。雨乞の霊験があり,字三ツ谷頂上の雨請塚で篝火をたくと必ず降るといわれる。2月8日同社で山の神祭が盛大に行われ,また1月14日夜には子供組による悪魔払いが各戸を回る。字御霊には黒川村の総鎮守御霊神社がある。仏堂には不動堂がある。もと不動寺と称し,安置される円空作十一面千手観音像は市重要文化財に指定されている。学校は,明治8年字辻平に別保村と共立の黒川学校を開く。同22年黒岩村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7282589