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砥沢村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。甘楽【かんら】郡のうち。幕府領。日向【ひなた】砥沢村・日影砥沢村が合併して成立。村高は「元禄郷帳」で346石余,「天保郷帳」351石余,「旧高旧領」346石余。検地は延宝6年に代官岡上・南条氏によって実施。村鑑(富岡史)によれば,反別62町余・村高346石余を打ち出し,耕地はすべて畑で,上畑・中畑・下畑・下々畑・山畑・桑畑・楮畑・切畑などに分かれ,その他高除けの切代荒畑もあった。年貢は宝永元年の皆済目録(南牧村誌)によると正租永37貫文余,高掛物として御伝馬宿入用・御蔵前入用・六尺給米,小物成として紙舟役・絹売出・綿売出などが課せられていた。夫役としては文久元年に皇女和宮の下向に際し,中山道板鼻宿火消人足に差村されていた。戸数・人口は村鑑(富岡史)では宝暦3年156・742,安政5年117・456。特殊な産業として砥石の採掘があった。徳川氏の関東入国以来幕府の御用砥として重要視され,御蔵砥とも称された。開発の初年次は不詳であるが,建久年間,西行法師が来遊し砥山を詠じたとされ,「甲陽軍鑑」には砥石の優秀性が認められたという記録もある(南牧村誌)。また天正5年の売買にかかわる文書も残存することから,少なくとも中世末期には開発されていたことになる(平井家文書)。慶長年間富岡町が新田開発されたのも砥荷物の中継地としての機能をもたせるためであった。元文3年の上野砥由緒書上帳(浅川家文書/県史資料編9)によれば,江戸期に入り富岡町の奈良屋彦次郎が経営にあたったが,元和9年から享保13年までは地元豪士市川半兵衛家が経営を受け継ぎ,その後経営者が何人も交代した。砥石の採掘は砥株の所有者のみが許され,121軒あった。うち71軒は砥切専業,50軒は半農半鉱である。極めて良質な砥石でもあり,幕府は砥山役人に対して他所に砥山が発見された際の採掘許可および販売範囲の決定権や砥山普請金の下賜,普請人の調達などを定める権限など,いくつもの特権を与えていた。一方,砥山請負人は生産額に応じて幕府に運上金を納めていた。元和9年の運上永228貫文余,砥駄数計8,129駄。以後,文政8年までの総運上永は7万4,402貫余(南牧村誌)。砥荷物の主要輸送経路は砥沢-下仁田(会所)-富岡(問屋)-藤ノ木河岸(幕末期倉賀野河岸)-江戸で,江戸から全国へ向けて販売されていた。このように砥山が重要視されていたため,村方(地方)名主とは別に砥山名主がいた。当村には穀市もたてられていた。信州佐久米が中馬によって峠越えで運ばれ,穀市で売買された。村鑑(市川家文書)によれば,1・4・8の日の九斎市で,主に下仁田の穀問屋が取引きしており,穀市では菓子・まんじゅうなども販売されていた。また砥沢穀市の米価は安永2年1両につき1石2斗であった。また当村には信州・甲州に通じる道があるため,南牧関所が設置された。創設期は文禄2年で,関守には名主役の市川五郎兵衛が命じられ,番人3人とともに警護にあたっていた。寛保2年の大洪水の際流失したがその後再建され,明治期まで機能していた。安永5年の御社参中御関所通路書留(市川家文書/南牧村誌)によると,信州から上州への下りは計77人,上州から信州への上りは計121人である。書留は4月12~22日の11日間のものであるので1日平均の通行量は下り7人,上り11人である。主な通行人は山伏・油売・ふるい屋・桶屋・武州藍屋・廻国などで,特徴的なのは信州米の輸送の中馬である。村内には安永2年に建立された芭蕉の句碑がある。加賀国の蘭更が来訪し地元俳人を指導して建てたもので,近くに蘭更の句碑も建てられている。慶応4年農兵隊取立用金の命令が岩鼻代官・関東取締出役から出されたことに反発した農民が,世直しと称して打毀し騒動を起こした。吉井から始まったこの打毀は富岡・一ノ宮・下仁田に及び,さらに西牧・南牧に分かれて信州まで達した。この時砥沢村の農民を組織し信州佐久郡埼田・下海瀬・海瀬新田・余地村に対し,安い米を売買するよう誓約書を提出させたのが村内の六兵衛である。南牧勢のこのような行動に対し佐久郡の村々の農民もこれに協力したため,彼らの要求も成立はしたが,やがて鎮圧されていった。寺子屋は中道院ほか2か所あった。幕末の改革組合村高帳によれば,下仁田村寄場組合に属し,高346石余,家数117。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県北甘楽郡に所属。明治6年六車【むくるま】村と共同で南牧中学校が民家を仮教場として開設され,児童数は同年男53・女13,翌11年男25・女15,明治7年五等郵便局設置。同13年の「県統計表」によるとその取扱量は発信数282・配達信書648通である。明治8年字日向に内国通運会社継立所開設。「郡村誌」によると,村の東西1里余・南北32町余,税地は畑反別62町8反余・林4町8反余・大縄場18町1反余,改正反別では畑75町余・宅地2町9反余で,地租133円余・雑税220円余,戸数127・人数495,馬14。中世末期から江戸期にかけて産出されていた砥石は,明治11年新鉱脈が発見され,生産量は大砥・丸砥・荷砥合わせて年間880万本に及んだ。村社は人丸神社,物産は生糸201貫余・コンニャク玉76俵・楮皮1万5,100貫目余。同12年生糸の粗製濫造を正すため共同揚返場を設け砥沢精糸社を創立し,提糸造から捻糸造に改め,同13年これを甘楽社配下の砥沢組(釜数24)とした。同22年尾沢村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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