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富岡(近代)


 明治22年~現在の大字名。はじめ富岡町,昭和29年からは富岡市の大字。明治22年の戸数943・人口4,786。同24年の戸数1,071,人口は男2,387・女3,071,学校3・水車場5。絹宿は大正期には12軒となったが,昭和14年廃止。生絹は明治期の賃機から大正9年にはそれぞれ会社を創立して企業化し,富岡絹の生産量も明治37年1万7,000余疋,同42年2万2,000疋が,大正10年は13万4,000余疋,昭和9年14万8,000余疋と増大。昭和30年の生絹工場数9,織機台数は385に及んだ。わが国初の機械製糸伝習工場としての官営富岡製糸場は,昭和13年原富岡製糸所から富岡製糸所となって,片倉製糸紡績に経営が代わり,翌14年片倉製糸紡績富岡工場となって現在に至る。洋人館・繰糸工場・繭倉庫などはほとんど官営創設時の原形をとどめ,明治初期の木骨煉瓦造の重要な建造物として,その歴史を物語っている。明治24年荻野千代吉が有志とともに蚕業の改良発達を図って童児社を設立。伝習生を養成,3か年修業者を授業員として,県下のみならず熊本・岡山・岐阜・静岡・千葉・宮城県などに派遣した。同42年私立童児社蚕業学校と改称,本科(高等小学校卒業者)2か年,定員100人,別科(尋常小学校卒業者)6か年,定員不定であったが,同44年閉鎖された。明治13年富岡・七日市・一ノ宮・下仁田など郡内13組の揚返し工場が統合して,北甘楽精糸社を創立,同社は明治28年甘楽社と改称,多数の組が加入,同34年には組数80・社員6,511人,製糸高4万6,720貫余,同35年パリ博覧会に出品し金賞を得た。この頃から県内だけではなく埼玉・栃木・千葉・岡山・福島・秋田県の組合も参加,大正元年137社に及んだが,昭和期に入ると県内56社・埼玉県9社・福島県2社・岡山県1社と減少した。富岡町にはこのほか光勢組・宗岐組・三共製糸所・古館製糸所そのほか個人経営など大小の製糸場があった。明治26年富岡銀行創立。同32年設立の甘楽銀行は昭和4年上州銀行に合併,同行支店となる。同9年上州銀行は群馬大同銀行に併合,同16年富岡銀行も群馬大同銀行に合併,同行支店となる。群馬大同銀行は,同30年群馬銀行富岡支店となり現在に至る。明治26年上野鉄道創立協議会が開かれ,富岡製糸場経営の三井をはじめ,横浜の生糸商,高崎・富岡・下仁田の有力者が参加,同30年高崎~下仁田間の軽便鉄道が開通,大正10年上信電気鉄道となり現在に至る。明治32年富岡倉庫が創立,繭を主とし,昭和10年の保管金額132万2,212円,雑貨類49万8,938円であった。魚市場は大正9年創立,同12年から株式組織となる。青物市場は昭和6年創立,現在両者合同して富岡魚菜市場となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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