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半田村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。群馬郡のち。はじめ高崎藩領,寛文2年安中【あんなか】藩領,その後,幕府領,寛文11年旗本堀氏領。慶応3年から前橋藩領。村高は,「寛文郷帳」で857石余うち田方284石余・畑方573石余,「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」すべて同高。鎮守は早尾神社,祭神は建速須佐之男命で享保2年建立されたが,宝暦9年関東地方に大雨が降り利根川の洪水で埋没したため,拝殿を現在地に再建した。「上野国式外神名帳」群馬郡の部に従四位上家尾明神として出ているのが早尾神社であるという。現在の本殿は文化14年に建立したことが棟札に書かれ,柱には昇り竜・降り竜の彫刻がある。他に小字剣城に熊野神社があり,主祭神の結宮は熊野夫須美大神,速玉宮は御子速玉大神,証誠殿は家都御子大神を祀り,熊野三所権現といわれる。明治42年官有合祀令により早尾神社境内に遷宮。西側の台上に3つの祠が祀られている(渋川の史跡)。寺院は曹洞宗玉輪山竜伝寺で,天正9年信濃国長国寺角翁随麟禅師が開山し,もとは小字浄法院の地にあったが,天明3年浅間山の噴火による泥流で伽藍が埋没したため現在地に移転した。境内に永正年間の古い五輪塔4基がある(北毛の史蹟と文化財)。村西方の佐渡街道に接する台地には畑地,東方の利根川に沿った低地には田が広がる。安政2年の渋川村組合村柄書上帳(堀口家文書/県史資料編13)によると,家数142・人数644,馬45,利根川に渡船を持っており,農間に男は柴薪刈,女は機織・絹糸・木綿糸引で稼いだ。天保10年の渡船年季継替証文(相川家文書/同前)によると,近郷通用の小船1艘を村で持ち,銭500文を納めた。延享4年榛名山東麓を流れる茂沢川の茂沢用水をめぐって,湯上・八木原両村を相手に出入を起こした。寛延2年いったん収拾したかに見えたが,八木原村との間でさらに争われ,宝暦4年八木原村と当村は4対1の割合で分水することになり,決着した(同前)。漆原用水(戸賀野堰)を当村が使い始めたのは享保8年であったが,浅間山の噴火で天明3年漆原用水が埋没し,文政12年渋川の落合より取水する新堰を開削した。天保2年漆原・半田両村用水堰取替議定が漆原村から当村に出される(同前)。承応3年湯ノ上村とともに渋川・石原両村を相手に渋川山の秣場について出入を起こしたが敗訴し,宝暦13年渋川村へ山札51枚分の札銭を納めて秣場を利用した。天明3年の浅間山大噴火での当村の被害は,泥押田9町6反1畝・畑43町1反1畝,流死者9,流失家屋8,流死馬8で,その後田や屋敷を流失した者が新屋敷に引き移った。熱泥押後の復興・村の状況は,天保15年作成の半田大絵図(高橋家文書)に出ている。村内に寺子屋私塾が2つある。1つは山口健三が文久・元治年間から明治初年まで自宅に開いたもので,医業のかたわら子弟100余人に漢学や習字を指導した。健三は渋川郷学の木暮足翁の門弟で,高野長英から西洋医学を学んだ。山口家の墓地に筆子塚がある。もう1つは高橋宗六が慶応年間から明治初年にかけて自宅に開いたもので,酒造業を営むかたわら近郷の子弟60人に漢学を指導した。宗六は江戸で勤王の志士藤森天山に学んだ。高橋家の墓地に筆子塚がある。当村の年中行事に1月7日のお的の式,7月31日のみそぎ流しがある。お的の式は早尾神社の前で両親の揃っている男子2人が矢を射って,的の上半分にあたると豊作というもの。みそぎ流しは坂東橋下の利根川原に祭壇をつくり,6月名越祓のお札と紙人形をサカキにつけ,罪やけがれを流し水難をよける行事である(北毛の史蹟と文化財)。農村演芸として半田歌舞伎がある。延宝3年江戸の歌舞伎役者が旅先の当村の人たちに世話になったお礼に教えたのが始まりといい,現在まで伝統が受け継がれている(渋川の史跡)。幕末の改革組合村高帳によれば,渋川村寄場組合に属し,高857石余,家数135。明治4年前橋県,群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。同12年対岸真壁村との利根川の渡し舟が舟橋となり,県の許可を得て通行料を取る。同14年馬車も通り,渋川と前橋との往来が頻繁になった。この頃から渋川に向かう道路沿いに人家が増加する。学校は明治7年半田・漆原・川原島連合漆原小学校が漆原村長松寺に開校,生徒数男75・女15。同8年半田小学校が独立して竜伝寺に開校,生徒数男37・女10。同19年学区改正で八木原尋常小学校が開校し,当村から通学する。同22年古巻村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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