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東上秋間村(近世)


 江戸末期~明治22年の村名。碓氷郡のうち。上秋間村が東上秋間村と西上秋間村に分村して成立。「郡村誌」によれば,慶長8年に東上秋間村と西上秋間村に分かれたというが,郷帳類には上秋間村と見える。村高は「旧高旧領」で837石余。この高には上野尻村妙高院領24石余が含まれる。なお内部では,上秋間村は古くから二分されていたと思われ,うち当村にあたる地は東郷などと呼ばれていた。はじめ安中【あんなか】藩領,天和元年幕府領代官高室氏支配,同2年旗本喜多見氏領,元禄元年幕府領代官高室氏支配,同5年から旗本米倉氏領となる。享保8年当村のほか西上秋間・下秋間村の旗本領3か村の百姓470軒余の者が,地頭米倉采女の日頃の施政に不満をもち,米倉本家に越訴している。また文化9年総百姓が,村役人の余米処置に対して納得ができないとし上役人の権力による解決を願い出た。上役人も村役人と結託して総百姓の願いを聞き入れなかったため,争いは2年間に及んだ。地頭所は上役人麻井儀右衛門を当面の責任者として退役させたが,余米処置に対する疑問は総百姓に残って納まらず,加えて旗本の家政にまで口出ししたため,中心人物の十兵衛・九兵衛は手鎖の上宿預けとなった。文化10年8月百姓代・組頭・名主連名で本家へ越訴,11月には手鎖をとかれて2人が帰村,翌年3月急度叱置の処分で一件落着した(磯貝家文書)。天保11年の村人別改帳によれば,総家数270軒・人数1,192人,うち農業195軒,農間商ならびに諸職人の類渡世の者58人,酒屋渡世7軒・煮売茶屋7軒となっている(安中市誌)。明治元年岩鼻県,同4年群馬県を経て,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。明治6年東上秋間村磯貝延太郎宅を仮用して飽馬東小学校が開校,開校時の生徒数40人,同10年は男41人・女7人であったが,同22年4か村合併に伴う本校(秋間尋常小学校)の誕生により廃校となり,東分校へ移築された(安中市史)。字長岩の岩戸山(御殿山)に,下秋間村館の出身で赤穂義士片岡源五右衛門の下僕であった元助が享保11年に建立した赤穂四十七士の石像がある。また久保川が秋間川へ注ぐ所には,慶長15年磯貝伊豆守が建立した三角【みかど】の橋供養塔がある。字上馬場には応永年間の飽馬紀伊守の古城墟という内出城跡もある。明治16年の戸数178・人数870(同前)。同22年秋間村の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7284292