吹屋村(近世)

江戸期~明治22年の村名。群馬郡のうち。白井吹屋村とも記されている。はじめ白井藩領,のち幕府領,幕府代官は岡上次郎兵衛景能,八木仁兵衛,池田新兵衛など。延享4年幕府領・吉井藩領と旗本松田・本多・保々氏の5給。村高は,「寛文郷帳」で813石うち田方76石余・畑方736石余,「元禄郷帳」813石,「天保郷帳」813石余,「旧高旧領」813石余。享保6年当村と白井村のとりきめによると,吾妻【あがつま】川の河原の真木島耕作に使用していた戸鹿野船渡しの通船路の修理や年番名主の江戸詰入用金については,両村高割で醵出している。延享4年から旗本松田弥五郎東組242石余,同本多鉄五郎裏組197石余,同保々八郎右衛門表組135石余,吉井藩松平左兵衛督信任西組194石余,御料所清水領館林藩松平氏43石余(のち幕府領岩鼻代官所支配)で合計813石余。元禄11年の戸数117。文化10年の戸数155。嘉永5年の横堀宿助郷免除願によると高813石うち荒地高376石余・有高436石余,戸数230うち潰家61・家数169,人別750うち勤まる者459・村役人老若男女病身者291,馬130うち弱馬4。甲冑師明珍在住の影響もあり,鋳物師の里として生活用具を製造し,次第に盛んになった。天明鋳物で知られる下野【しもつけ】国佐野天明が関東の中心的存在であったが,佐野地方を支配していた足利長尾氏と白井長尾氏・越後長尾氏が同盟を結ぶようになったことから,その鋳造技術が佐野から吹屋へもたらされた。戦国期御用鋳物師と称された京都の真継家は,朝廷から受けた綸旨の写しを諸国の鋳物師に与える格式を得ていた。正徳4年,白井吹屋の小沢氏は佐野天明の太田氏の仲介で綸旨を写しとった(柳田家文書)。その後小沢氏は太田氏の別家となり太田氏を名乗っている。当時の吹屋の鋳物師仲間は9軒で,安永4年,このうちの2軒が真継家から直接允許状を得た(阿久沢家文書)。この2軒が前鍋屋・後鍋屋として現代まで生業を続けていた。天正4年に定められた鋳物師職座法の掟の写しが残存しており,年頭八朔・朝廷吉例の祝儀・別家の取扱いのことなど細かに記されている。また近隣の市日を利用して惣社村・渋川宿・金井宿・八木原宿などに出店を出しており,文化・文政年間には江戸表まで売りに行き,江戸十組鍋釜問屋と江戸町奉行に納める運上金のことでいざこざを起こしている。源空寺の梵鐘は,白井吹屋の太田氏(小沢氏)と佐野天明の丸山氏の合作で,安永7年の銘がある。本堂前の阿弥陀如来像は天保10年小沢氏作である。最後の真継家允許状は明治2年に出され,請書が現存する。江戸の俳人松露庵白井鳥醉やその高弟春秋庵加舎白雄も,白井城・双林寺・吹屋に遊び,名句「僧に法虫に声あり夜もすがら 鳥醉」「うら表木の葉浮べるさ冷えかな 白雄」を残している。幕末の改革組合村高帳によれば,白井村寄場組合に属し,高813石,家数74。明治元年旧旗本領は岩鼻県,同4年群馬県,同6年熊谷県,同9年群馬県,同11年群馬県西群馬郡に所属。子持山麓秣場・小野子山麓秣場・合之沢秣場(すべて官有地)を近隣の村々と入会地として利用していた。小学校は玄棟院を借用。明治18年清水越新道が開通,吹屋村の恵久保・鯉沢を通過し,吾妻川対岸の阿久津村にはじめて吾妻橋が架けられた。深さ2尺・幅2間の鯉沢川が吾妻川に入る地点の鯉沢には,水車小屋が2軒のみであったが,吾妻街道・清水越往還方面への旅客が通過するようになり,街村の傾向を帯びてくる。同22年長尾村の大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7284397 |





