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保泉村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。佐位郡のうち。はじめ幕府領,延宝元年幕府領と旗本上田・柘植氏領,天明8年幕府領と旗本杉山・上田・柘植氏領,文政8年館林藩領と旗本新見・杉山・上田氏領,嘉永2年前橋藩と旗本3氏の4給(郡村誌)。検地は寛文12年に実施され,村高は「寛文郷帳」で畑方271石余,「元禄郷帳」379石余,「天保郷帳」378石余,「旧高旧領」同高。この村高はいずれも在地文書と異なり,寛文検地水帳ではすべて畑で村高364石余・反別79町余をあげる。以後少しの違いはあるがこの村高で明治期に至った。文化2年の明細帳では人数311,家数不明,生業は男は農業の間小商・日雇稼,女は糸引・木綿織・絹太織稼をしている。当村は粟がら育ちとうたわれるほど地味が悪く農業の発達が望めなかったため,農間稼ぎが盛んであった。慶長13年粕川に引水する新せき堀が完成し村を貫流したが,これは御霊用水と呼ばれる下流の世良田東照宮用水であったため当村では利用できなかった。農産物の反別順は小麦が3分の2を占め,次いで大麦・大豆・ソバ・粟で,米作はない。北方の原野に境町と伊勢崎を結ぶ街道が通じており,往来が増加した天明年間には当村からはるか離れた街道沿いに村人が移住して新田と呼ばれた。寛政年間に至り学問文芸が盛んになり,特に多くの俳人が存在した。文化年間から文政年間,学問に秀でた鈴木広川が現れると東上州一の儒家と称され,多くの門下・詩盟が集まり文芸の中心地となった。能文多詩や多くの遺稿が伝えられ,当時の学問文芸の様子を知る文献とされている。次いで長淵寺が寺子屋を開き,医家田島恬穎が私塾で教授し明治期に至った。幕末の改革組合村高帳によれば,伊勢崎町組合に属し,高364石余,家数93。明治元年旗本領は岩鼻県,同4年前橋藩領は前橋県を経てともに群馬県,同6年熊谷県,同9年群馬県に所属。同12年上武士・下武士と3か村連合戸長役場となる。明治2年の廉々書上帳によれば,家数87・人数390,生産は麦460石余・大豆120石余・粟55石余・薩摩芋85俵・生糸32貫余・蚕種185枚・太織縞70疋で,生糸・蚕種・太織の売り上げ合計は1,462両。同4年の物産取調に外国売渡蚕種は780枚に増加した。明治2年神葬祭令により長淵寺を廃し,村全体が神葬祭になり現在に至る。同9年三遊亭円朝は取材のため保泉新田を訪れ,「塩原太助一代記」には,この山林中の挿図と物語が描かれている。「郡村誌」によれば,物産は太織120疋・生絹8疋のほか,繭・生糸があった。同22年剛志【たけし】村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7284510