六供(近代)

明治22年~昭和26年の大字名。はじめ上川淵村,明治34年からは前橋市の大字。明治22年の戸数120・人口622。同24年の戸数196,人口は男351・女333,学校1・水車場1。同34年の戸数131・人口903,田54反余・畑43反余・郡村宅地反別10町8反余,雑種地等反別9町余,地租額1,270円余,衆議院選有権者10・県議選有権者46(前橋市史4)。同40年の戸数137・人口932。産業面では明治31年前橋紡績所がつくられる。同所の主要製品は紬糸で,1年間の就業日数334日間,1日の就業時間11時間,職工および徒弟14歳以上が男9・女39,タービン式水車発電機などを使って1日約26~30貫の生産をみる。明治38年頃の商家数は2で蚕糸1・飲料1。戸数・人口は,大正5年154・1,050,昭和元年189・1,365,昭和4年195・1,314(男661・女653)。世帯数・人口は,昭和20年の290・1,484(男700・女784),同25年675・3,080(男1,509・女1,571)。大正6年の井戸数106。昭和21年生川地区に戦災者・引揚者などへの公営貸付住宅150戸が建設された。昭和18年から事業費240万円余を投じて,近代都市化の区画整理が実施されている。昭和26年六供町となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7285079 |





