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行田町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。埼玉郡忍領のうち。古くは谷之郷忍荘に属したという。忍城の城下町であって,「新編武蔵」は「城下町」という標題でこの町を記述している。南の佐間口から城の外郭を通り,八間【はつけん】門から行田の新町【あらまち】に入る。そこから城の東郭に並行して北に向かうと,新町と上町がT字形に交差する札の辻にいたる(忍の道の記)。西へ折れれば大手門に出,東へ曲れば上町から下町【しもまち】を通って長野口に出てしまう。当初この3町で構成されていたが,明暦元年には八幡町が築立てられ,合わせて4町となった。この八幡町は大工町ともよばれ,木挽町が付属した工匠の町であった。4町の面積約17ha,その後近代に至るまで拡張はみられなかった。名主を町年寄といい,梅沢・吉羽・古橋・樋口⑵・加藤の6家が世襲,その下に表立【おもだち】が各町に5名ずついて,町政にたずさわった。江戸期を通じて戸数500~600・人口2,000~3,000の間を上下しており,寛保3年までは馬83匹を飼養した。この83匹は人足107人とともに,日光八王子道に沿う宿駅としての行田の人馬役で,高300石が馬草場として与えられた。それははじめ小針村にあったが,なんらかの理由で同村分として取り上げられ,行田町民は「馬を畳の上にて飼申候様なもの」と嘆いた。この村高はいつの頃か谷郷の地に振り替えられたが,寛保2年には300石のうち180石が谷郷小作人の持名に変わり,荒川川除普請人足の負担に難渋した(要中録)。人馬役は同3年に50人・50匹,安永5年には25人・25匹と,全国的傾向に沿って減少されたが,とにかく中山道などのような繁華な宿場と違って見返りの利潤もなく,とくに幕末になって関東取締出役や普請役人の往来が頻繁になると,自ずから町民の宿駅関係負担への関心が高まり,安政2年に起きた町入用省略願一件は町役人忌避の出入となり,江戸への門訴に発展し,落着するのに足掛け3年を費した(同前)。戦国期から地子免許の地ではあったが,人馬役のほか城外郭の木戸・土居などの修覆,堀の藻刈,治水利水関係負担もかなりのものであったようだ。市ははじめ下町と新町が立てたが,承応2年から上町も加わり,3町交代で六斎市を立てた(同前)。化政期以後は当地の特産であった木綿織物の売買が盛んになり,縞市と称された(梅沢家文書)。神社は八幡社・愛宕社,寺院は浄土宗大長寺・新義真言宗法性寺・同長徳寺。町の祭礼ははじめ瓜祭と称した素朴なものであったが,宝暦年間頃から江戸の風にならい祇園天王祭と変わって,獅子・神輿が出るようになり,享保年間には花神楽・湯起証【ゆぎしよう】の神事も行われるようになった。ところがそれは幕末期には幟・奉灯・神輿渡御だけになってしまった(要中録5)ようである。明治4年埼玉県に所属。同22年忍町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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