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飯能村(近世)


 江戸期~明治15年の村名。高麗【こま】郡加治領のうち。古くは加治郷加治荘加治領に属したという。はじめ幕府領,宝永4年常陸下館【しもだて】藩領,享保17年上野沼田藩領,寛保2年からは上総【かずさ】久留里藩領。検地は寛文8年。村高は「田園簿」で208石余,うち田56石余・畑151石余,「元禄郷帳」317石余,「天保郷帳」362石余。はやくから入間川の谷口集落として開け,地内で川越【かわごえ】道と秩父【ちちぶ】往還が交差し町場化が進んだ。元禄年間から6・10の日に六斎市が立ちはじめ,縄・莚・炭・薪を中心に交易したが,次第に絹織物の取引きが盛んになり,化政期には絹織物・青梅縞・米穀・絹太織に至るまでを交易。また,江戸中期から入間川上流の西川材の集散地として栄え,板材・杉皮なども取引きされるようになった。街道沿いに商家が軒を並べ,化政期の家数136軒。高札場は村の南。江戸中期の領主黒田氏は中山村から出た中山氏で,当村の北西の多峰主【とうのす】山に墓所があった。諏訪明神社は中山氏が大檀那となって天正12年に再興。神社はほかに9社。寺院は曹洞宗武陽山能仁寺で,中山氏の保護を受け,天正19年に徳川家康から寺領5石の寄進を受け,宝永2年に加増,朱印50石となる。寺院はほかに新義真言宗般若山観音寺で観音堂領として慶安年間に朱印3石5斗を拝領。寺院はほかに同宗神光山大泉寺・曹洞宗青雲山西伝寺。明治元年5月,下級幕臣からなる上野彰義隊の一派振武隊が能仁寺を本拠にし当地に籠ったが,征討軍の攻撃で敗走。この飯能戦争で能仁寺はじめ民家多数を焼失した。同4年飯能郷学校,同8年能仁寺再建。同9年埼玉県に所属。同年の戸数176・人口787,馬3。公立小学校は村の北にあり,生徒数111。物産は米・麦・繭・大豆・小豆・アワ・サツマイモ・清酒・焼酎・茶・醤油・生絹・木綿縞。同12年高麗郡に所属。同15年久下分【くげぶん】・真能寺両村と合併して飯能町となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7289691