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矢古宇郷(中世)


 鎌倉期から見える郷名。初見は承久3年8月2日の関東安堵下知状に,「鶴岳八幡宮社領武蔵(国)矢古宇郷事」と見え,執権北条義時は,承久の乱の戦勝祈願のために本郷を鶴岡八幡宮社(現神奈川県鎌倉市)に寄進しており,「吾妻鏡」承久3年8月7日条には「鶴岳八幡宮分,武蔵国矢古宇郷 五十余町」と見える。また「吾妻鏡」宝治元年7月16日条には,当郷の別当得分をもって八幡宮の読経料にあてる旨の記事が見える。また同じく建長8年6月2日条には「奥・大道夜討強盗蜂起」に際して幕府は各地の地頭24人に警固を命じているが,このなかに「矢古宇右衛門次郎」の名が見える。なお宝戒寺(現神奈川県鎌倉市)の惟賢灌頂授与記には,貞和5年11月11日に灌頂を受けた6人の僧侶のうちに,「武州矢古宇 朝覚」なる人物が見える(宝戒寺文書/相州古文書)。当郷は多くの荘園が退転するなかで,南北朝内乱期を経た後も,鶴岡八幡宮社領として存続し,応永5年6月の「鶴岡事書日記」には同社の承仕給分の一部に矢古宇分が宛てられており,矢古宇の1町3反の仏性灯油分が見える(浦和市史2)。また応永15年9月10日箕匂道栄請文には「武蔵国 保内矢古宇郷」と見え,かつて奥州篠河【ささかわ】御所(現福島県郡山【こおりやま】市内)・稲村御所(現福島県岩瀬郡内)に仕えた武田若狭八郎が当郷に居住しているかどうかを,鎌倉公方に報告している(皆川文書/栃木県史史料編中世1)。また「鶴岡事書日記」の続編と見られる「当社記録 鶴岡八幡宮」と題する記録の写本(黒川文庫/国学院大学図書館)には,当郷の記事を散見することができる。寛正2年には当郷の代官職が問題となっており,翌3年4月条には,長尾氏の被官である神保内匠助が当郷の代官職を望んでいる。しかし農民側は,当郷にはもともと代官が置かれていなかったことを理由に,激しく反対したため,神保氏はこれを辞退せざるを得なかった。同年8月に至り,今度は豊嶋板橋方がこれを所望したため,鶴岡八幡宮は豊嶋板橋方に代官職を与え,一円所務を依頼している。同年9月29日には,豊嶋板橋方によって作成された注進状が,鶴岡八幡宮に届いたが,同注進状には農民側は逃散を行って抵抗したので,豊嶋板橋方は当郷に陣取してこれに応じた旨が記されているという(川口市史古代中世資料編)。現在の草加市・川口市を含む一帯。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7290723