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東金(中世)


 戦国期に見える地名。上総国のうち。天正2年頃の9月14日の足利義氏奉行人芳春院周興書状写(由良文書/神奈川県史資料編3)に「土気・東金・本納被押詰,郷村無残所候」と見え,小田原北条氏による攻撃の様子を由良刑部大輔国繁に伝えている。当時北条氏に対抗するため足利藤政(義氏の庶兄)を古河公方に擁立せんとしてこれを下総関宿城に入城させた上杉謙信・簗田晴助・里見義堯らは天正元年から,北条氏政およびこれと結ぶ古河公方足利義氏と合戦をくり返した。天正2年閏11月には氏政は簗田晴助・持助父子のこもっていた関宿城を落城させ,翌3年8月28日の北条氏政書状(清水文書/神奈川県史資料編3)には「十九日東金へ押詰,土気・東金両地郷村毎日悉打散候」と見えている。当書状は清水上野入道に宛てたもので,北条氏が土気・東金といった上総国の主要部分に激しい攻撃を加え,兵粮米を苅取ったうえ,これを一宮にあって北条方に味方した正木藤太郎に遣わしたことも見える。天正4年には土気城の酒井胤治が降伏し,東金城も北条氏の手に落ちて,北条氏による当地の支配が完了した。天正11年12月朔日の北条家伝馬手形(本漸寺文書/神奈川県史資料編3)によると,当地には伝馬3疋を出すべき旨を定めている。年未詳6月5日の酒井伯耆守宛て北条氏政書状(三浦文書/県史料県外)には東金と相談し,籠城すべしと見える。天正17年末と推定される小田原一役書立写(安得虎子/神奈川県史資料編3)によると,北条氏の軍令としての陣立が述べられており,東金には酒井左衛門尉政辰が在陣している。また天正18年4月以降の関東八州諸城覚書(毛利家文書/大日古)にも「とうがね〈坂井左衛門尉居城〉」とあって,小田原方として酒井政辰が東金城を守っていたことがわかる。「家忠日記」天正20年3月8日条によると,同18年武蔵忍城主となった松平家忠は東金近辺に175石余の知行地を得たことが知られる。「小田原記」(続群21上)には,永禄7年3月,上杉輝虎が小田原を攻めた際,原式部大夫の下総国臼井城をも攻めたが,城中から打って出た兵に当金(東金)の平山・酒井と見えている。東金城は,天正18年頃,小田原方として酒井政辰が150騎で守っていたが(毛利家文書/大日古),「鎌倉大草紙」(群書20)によると,康正元年下総国守護千葉氏の庶流馬加氏は惣領家を追放し,これを乗っ取ったが,これに対し,同じく庶流の東常縁は反馬加氏勢力を糾合してこれを滅ぼし,惣領家を元に返した。この合戦の戦後処理として常縁は,家臣であった浜式部少輔春利を東金城に置き,反勢力に備えたとある。城は房総台地の端,九十九里浜平野を眼下に見下ろす位置にあり,現在でも遺構が見られる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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