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真里谷郷(中世)


 南北朝期から見える郷名。上総国畔蒜【あひる】荘のうち。真里ケ谷・丸ケ谷とも見える。建武4年の相馬妙蓮申状に「上総国三直・津久良海・真里谷等郷」と見える(相馬岡田文書/県史料県外)。相馬胤康の所領の1つで,この申状では,妙蓮が建武2年北朝方に属して戦死した胤康の軍忠を述べ,遺領を胤康子息乙鶴丸(胤家)に安堵するよう申請している。下って康正元年足利成氏は下総国古河に拠り,以後関東地方では,古河公方足利成氏方と幕府・関東管領上杉方とに分かれて戦乱が繰り広げられたが,「鎌倉大草紙」(群書20)によれば,康正2年成氏方に属した甲斐武田氏の一流武田信長は,上総国の庁南・真里谷両城を攻め取ったという。武田氏はこれ以後両城を拠点として上総・下総地方に勢威を振るい,当地に拠った信長の子孫は真里谷を名乗っている。同じく「鎌倉大草紙」によれば下総国の千葉介の遺跡をめぐり,成氏の支持を得た千葉孝胤と上杉の支持を得た千葉自胤が争った際,自胤方の軍勢に攻められ,文明11年7月5日に「長南の城主武田三河入道」とともに「丸ケ谷の上総介」も降参したことが見え,これも武田氏の一族であろう。また永正4年11月28日の銘のある棟札に,天羽郡佐貫郷鶴峰八幡宮(現富津市八幡)の再興者として「武田式部大夫源朝臣信嗣〈在名号真里谷〉」と見える信嗣(鶴峰八幡神社文書/県史料諸家),あるいは「実隆公記」永正7年5月7日条に,禁裏御服料所上総国畔蒜荘を押領していると記されている摩利谷(真里谷)某は,ともに真里谷武田氏であり,特に後者は当時の真里谷城主とも考えられる。この頃真里谷武田氏は,下総国小弓城に拠る千葉一族の原氏と勢力争いを続けていたが,終始劣勢であった。そこで同氏は,古河公方足利政氏の子で,当時政氏と不和になり奥州を流浪していた足利義明を上総に迎え,永正14年義明を大将として原氏を攻撃した。同年10月15日に小弓城を攻め落とし義明はこのあと小弓城に入り,小弓御所と称された。なお,藻原寺所蔵「仏堂伽藍記」(藻原寺文書/県史料諸家)には,「同年(永正14年),三上・真里谷ノ取リアヰニ付テ真里谷ヨリ早雲衆ヲ(以下欠)」と見え,この合戦に際して真里谷武田氏は,北条早雲に支援を求めたことが窺える。享禄5年(天文元年)頃には真里谷武田恕鑑が真里谷武田氏の宗主であったが(快元僧都記享禄5年5月18日条・6月1日条),天文3年に恕鑑が没すると,子息信隆・信応兄弟の間で家督争いが生じた。信隆は小田原北条氏と結び,幼い信応は恕鑑の弟武田信助(心盛斎全方)の後見を受け,小弓御所足利義明と結んでいた。「快元僧都記」天文3年5月20日条には信応方の要請を受けた足利義明が,信隆討滅のため同月16日に出陣,同年11月20日条には信隆方の真里谷・椎津城(現市原市)を攻略し,敵100余人を討ち取ったことが見える。この時信隆は,北条氏の勢力下にあった西上総方面に逃走したようである。その後天文6年5月に至り,上総国峰上城(現富津市)にあった信隆は,当地の信応方に対する攻撃を開始し,上総国は内乱状態に陥った。信隆方の拠点は峰上城のほか,百首城(現富津市)と新地(真里谷新地)の城であった。この時も足利義明が信応方として出陣し,義明に属する上総・下総・安房3か国の軍勢の攻撃を受けた信隆方の3か城は程なく落城したらしく,天文6年5月末には3か城の城兵が義明から赦免されている(快元僧都記天文6年5月14日・18日・27日条)。なお(天文6年)5月24日付北条氏綱書状(東慶寺文書/県史料県外)により,信隆方の「まりやつしん地」には北条氏の家臣根来金谷斎が援軍として遣わされたことが知られる。真里谷新地とは,信隆に与した者が,信応の拠る真里谷の近隣に設けた信隆方の拠点と考えられる。戦国末期の成立といわれる「さゝこおちのさうし(笹子落草子)」「なかおおちのさうし(中尾落草子)」(群書21)に描かれているように,天文6年の内乱後も,支城の笹子城・中尾城を舞台に真里谷武田氏は内紛を繰り返し,安房・上総地方に里見氏が台頭してきたこともあってその勢力は次第に衰えたようである。前記の史料のほか,鎌倉円応寺所蔵奪衣婆像の永正11年8月吉日付胎内墨書銘に,同像造立関係者の1人として「総州真里谷」在住の中納言なる者の名が見え(県史料金石2),また年月日未詳の「上総国誌」所載真如寺鐘銘には「上総国望陀郡畔蒜荘真里谷郷,前永平寺兼最乗天寧山真如禅寺」と見える(荘園志料下)。現在の木更津市真里谷には,字真地と字要害の2か所に城址が確認されているが,通常前者の城址が真里谷城と呼ばれている(城郭大系6)。しかし天文年間の信隆・信応の内紛の際には,信隆方の拠点は新地・真里谷新地と呼ばれており,これは現在の字真地にあたると考えられる。したがって康正2年以来真里谷武田氏が住し,また信応方の拠点となったのは,字要害に所在した城郭ではなかろうか。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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