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田無村(近世)


 江戸期~明治12年の村名。多摩郡野方【のがた】領のうち。中央を青梅【おうめ】街道が東西に走り,並行して南方を石神井【しやくじい】川が東流する。正保年間頃は幕府領と旗本領の入会,のちすべて幕府領。「田園簿」では田無町と記され,村高は595石余,皆畑。支配の内訳は幕府領300石余・田中市郎右衛門知行145石余・蜂谷源右衛門知行75石・坂部次兵衛知行75石。その後開発が進み,「元禄郷帳」では1,150石余,「天保郷帳」では1,484石余,「旧高旧領」では1,486石余。村内東方を小名柳沢【やぎさわ】,中央を小名宿【しゆく】,西方を小名芝久保【しばくぼ】,南方を小名向台,北方を小名谷戸【やと】と称した(新編武蔵)。江戸中期以降,下田家が名主を世襲(下田家文書)。寛永年間以降,尾張家の御鷹場。青梅街道の継立場で,大山道・所沢道の分岐点に位置し,江戸へ6里,青梅へ8里。追分の小名柳沢では,当初農家5~6軒のみで伝馬の役に立たず,幕府は小名谷戸地内の馬持ち百姓を街道筋に転居させたという。また毎月1・6の日の六斎市が立った。天保期の戸数267・人口1,259(農間渡世書上帳/下田家文書)。明治元年,振武軍が上野【うえの】の戦いを逃れ来村,村内の西光寺に本部を置き,密蔵院・観音寺等に分宿,一時敗残の彰義隊員等を加え総数1,500名を数えたが,東征軍により飯能【はんのう】村(埼玉県)で壊滅。明治4年神奈川県,同11年からは北多摩郡に所属。明治5年小名宿の八幡社,谷戸の諏訪社,向台の八坂社を小名宿の鎮守尉殿権現社に合祀,田無神社と改称。同8年には西光寺・密蔵院・観音寺を統合し新義真言宗惣持寺とした。同12年田無町となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7300202