100辞書・辞典一括検索

JLogos

32

磯部村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。相模国高座【こうざ】郡のうち。寛永10年は武蔵忍藩領,元禄10年は幕府領,幕末は幕府領と旗本町野氏・大津氏・大久保氏の相給。ほかに曹洞宗能徳寺領がある。同寺領は慶安2年に7石余の朱印地を拝領(新編相模)。ただし「旧高旧領」では同寺領3石余と見える。村高は,「元禄郷帳」で783石余,「天保郷帳」で787石余,「旧高旧領」で846石余。検地は文禄3年・慶長8年・元和8年と実施され,また寛文2年にも久世広之が行っている(相模原市史2)。天保9年の村柄書上によれば高775石余とあり,反別は129町3反余うち田34町2反余・畑92町5反余・屋敷地2町5反余,家数185軒・人数849,馬48,医者2,馬医者1(荒井家文書/同前5)。地内ほぼ中央を横山段丘が南北に連なり,台地上は相模野で畑・山林があり,東方は入会秣場となっていた。入会秣場の境争論がたびたびおこり,その境界を示すため108の塚があった。西は相模川が流れ,対岸の愛甲【あいこう】郡猿ケ島村への渡し場があった。相模川の河岸段丘が横山段丘とほぼ並行に連なり,北に上磯部,南に下磯部の集落が形成され,段丘下に水田が広がっていた。八王子往還と府中街道が地内を通る(相模原市史5)。用水は鳩川を利用。引水の3分の2を磯部村,3分の1を新戸村が利用と定められていたが,貞享4年当村は水不足として代官に訴え,4分の3を磯部分,4分の1が新戸村との裁可を得ている(荒井家文書/同前)。「新編相模」によれば,江戸から12里,東西22町・南北17町程,家数185軒,鎮守は八幡社,寺院は能徳寺のほか曹洞宗長法寺・勝源寺,浄土宗順光寺。勝源寺は明治年間に養蚕祈願の庚申さまでにぎわった。明治元年神奈川府を経て神奈川県に所属。「皇国地誌」によれば,税地は416町6反余うち田44町1反余・畑268町7反余・宅地17町6反余・山69町4反余など,ほかに畑見込鍬下15町6反余,明治9年の戸数219・人口1,060,馬75,船9,磯部学校があり生徒数34・教員数2(残稿)。明治11年の物産は米751石余・大小麦540石余・粟426石余・稗250石余・甘藷4万5,504貫余・繭9,375斤余・生糸515斤余・製糸625斤余などであった(相模原市史6)。明治22年新磯村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7302255