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小倉(近代)


 明治22年~現在の大字名。はじめ日吉村,昭和12年川崎市,同47年からは同市幸【さいわい】区の大字。明治24年の戸数110,男367人・女364人。昭和6年の世帯数124・人口731(日吉村役場調べ)。農業が盛んで米作を中心に,フキ・トマト・タマネギ・ソラマメ・サヤエンドウなどの野菜,モモ・ビワなどの果樹栽培のほか,副業として畳のしん作りなども行われていた。トマトは明治初期から大正初期まで盛んに作られた。大正期にはトマトケチャップ工場が2軒あり,原料は小倉のほかに矢向方面,東京近在の農家からも仕入れた。製造されたものは末吉橋から船で横浜や横須賀に送られた。この鶴見川の水運を利用した輸送は末吉橋に荷物を積み下ろす中継所があり,昭和15年頃まで続いた。フキの最盛期は昭和初期で,神田の市場でも大いにもてはやされた。モモ・ビワなどの果実は明治期から昭和初期まで盛んに作られ,市場にも多く出荷されたが,第2次大戦中からの食糧難のため伐採され,麦やジャガイモ畑になった。戦後は昭和35年頃まで野菜,特にキャベツが盛んに作られたが宅地化の影響で激減した。大正3年多摩川築堤のため神奈川県庁に大挙して陳情を行ったアミガサ事件に参加。同5年電灯架設。同12年の関東大震災では家がかしいだものもあったが倒壊家屋・死者なし。昭和2年南武鉄道(国鉄南武線)開通。同4年新鶴見操車場完成。敷地内にあった民家11戸が移転し,地内は東西に分断された。この操車場は,当地および川崎市街地の西部の発展,北西部への交通連絡の整備に大きな障害となったが,川崎臨海工業地帯の発展には大いに役立った。同14年地内をバスが通る。同年水道敷設。同20年の川崎大空襲では民家28軒とともに無量院・正蔵寺も焼失。同27年の世帯数595・人口2,878,同34年1,693・7,240。同33年の台風では鶴見川の堤防が切れて地域一帯は大洪水に見舞われた。同39年県道尻手黒川線の地内部分の舗装完成。同50年小倉こども文化センター開設。昭和47年一部を塚越1丁目に編入。現在,一帯は住宅と商店,工場の密集地であるが,わずかに残された畑には,葉物を中心にした野菜が栽培されている。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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