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片瀬(中世)


 鎌倉期から見える地名。鎌倉郡のうち。鎌倉に幕府が開かれると,当地は鎌倉の西の入口として重要性を増し,また刑場としても知られるようになった。「吾妻鏡」元仁元年12月26日条によれば,鎌倉で疫病が流行したため,北条義時は四角四境鬼気祭を西境の稲村ケ崎で行っているが,同書嘉禎元年12月27日条では「固瀬河」が西の境とされ鎌倉の地域が拡大されており,もとは当地は鎌倉の外であったことが知られる。同じく治承4年10月26日条には「固瀬河辺景親梟首」とあり,大庭景親は当地でさらし首にされている。また建治元年9月には,元軍の使者杜忠世など5人の使者を切り,文永8年9月には日蓮上人が当地の竜口【たつのくち】で首を切られそうになったが,助命され,のちに佐渡に配流されたことは史上名高い。当地は鎌倉の入口であり,交通の要衝でもあったことから,「吾妻鏡」には建保6年3月24日条に「固瀬駅」とも,また建長4年4月1日条には「固瀬宿」とも見える。建久年間の記事として曽我五郎が腰越【こしごえ】(鎌倉市)から片瀬の宿に至った旨が「曽我物語」に見え,承久元年7月19日京都から下向してきた摂家将軍藤原頼経は「かまくらちかきかたせといふ所」に着き,多くの御家人が迎えに当地に出向いていた(承久軍物語/群書20)。弘安5年には時宗の開祖一遍上人が片瀬の御堂で修行し,3月3日には北条時宗の請によって鎌倉に入り,往生院で供養を行っている(一遍聖絵/続群9上)。片瀬川の河口であったことから鎌倉防衛上の一大拠点となり,幕府滅亡時にはまず上野に挙兵した新田義貞の軍が元弘3年5月18日に鎌倉乱入の時点で,藤沢・片瀬・腰越・村岡など近隣の郷村に火を放っている(太平記)。北条氏は鎌倉で滅亡するが,乱入した北条時行が鎌倉を治めた。しかし中先代の乱では建武2年8月19日,足利尊氏の軍が片瀬原で時行の軍を破り鎌倉を押さえた。この合戦では,三浦の一党蘆名盛貞父子が尊氏方として討死している(三浦系図/続群6上)。同3年5月20日の相馬光胤譲状によると,斯波家長・吉良貞経ら尊氏方の軍が3月25日に当地で戦い,4月16日には家長・貞経の軍と南朝の北畠顕家が片瀬川で戦っており,家長方の相馬胤康が討死している(相馬岡田文書/県史資3上‐3274)。室町期には日蓮との関係から当地に建立された竜口寺(竜口の地にあたるか)の名が法宣院文書(千葉県市川市中山法華寺)に見えるのみで(藤沢市史4),当郷に関する記録は見えないが,片瀬浜の江島は江島神社が足利氏(鎌倉府)の保護のもと発展しにぎわっていった。なお刑場としてはその後も記録上に散見し,応永24年閏5月には上杉禅秀の乱の結果,鎌倉府の決定で岩松満純を竜口で斬っている(鎌倉大日記)。鎌倉府の退転ののち鎌倉を治めた小田原北条氏は,早雲の子幻庵の所領として当地を押さえた。戦国期の「役帳」には「八拾四貫五百文 東郡片瀬郷」と見え,幻庵所領として84貫500文の所領役高を有しているが,「富士・大森被下」とあることから,実際には富士・大森両氏の所領であったことがわかる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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