狩野荘(中世)

室町期~戦国期に見える荘園名。相模国足柄上郡のうち。苅野荘ともある。初見は暦応4年8月7日の摂津親秀大間帳(美吉文書/県史資3上‐3553)で,「相模国狩野庄内大和田大久畠〈但除宿在家〉」「相模国狩野庄内田地」と見え,この文書によれば摂津親秀は当荘内のそれぞれの地を養子宇都宮参河入道子息・養子佐々木中沼五郎子息とに譲与しており,この地はもと摂津氏の所領であったことがわかる。ついで応永29年8月18日の大森道光(頼春)田地寄進状(内海文書/県史資3上‐5652)には「さかみの国かのゝしやうの内御れう所分の内ゆわハらのしせん入道かひかゑふん」とあり,道光が当荘内の地を二岡(静岡県御殿場市)の覚智院の光明護摩免田として寄進したことが知られる。また同日の大森道光供料寄進状(内海文書/県資史3上‐5653)によれば,道光は「さかみの国かのゝしやうの内ぬまたのかう」を二岡の御供料として寄進しており,当荘内の「ゆわハら」「ぬまたのかう」ともに大森氏の所領であったことがわかる。その後浄光明寺領の役夫工米以下諸役を免除した享徳2年12月15日の鎌倉公方足利成氏御教書(浄光明寺文書/県史資3下‐6169)には「相模国苅野庄内奴田郷」と見えている。戦国期の「役帳」には小田原北条氏小田原衆の松田左馬助の所領役高として「千弐百七拾七貫七百弐拾文〈西郡〉苅野庄」とあり,足柄上郡松田荘出自の土豪である松田氏が当荘をも領有していたことがわかる。永禄11年11月1日の年紀をもつ足柄上郡谷ケ村の白旗社所蔵の棟札に見える「奉造立相州西郡苅野庄屋賀村郷白旗大明神御宝殿一宇」の,造立主「地頭左馬助殿」は,松田左馬助と同一人物と考えられる。以上のように当荘は摂津氏・大森氏・松田氏などと関係の深い荘園であるが,その伝領関係や内部構造などは不詳。天正18年4月豊臣秀吉は相模国各地に掟書や禁制を発給したが,この中には「相模国西郡内狩野庄」(相文/県史資3下‐9694),「相模国西郡内苅野庄」(武尾毎木氏所蔵文書/同前9695),「相模国狩野庄最乗寺并各庵」(相文/同前9706)など当荘に関するものも含まれており,この場合「狩野庄」と「苅野庄」はいずれもその掟書が写もしくは案文であることから同一地域に発給されたものと思われる。これらの掟書・禁制より秀吉は当荘を小田原攻めの際に掌握しようとしたことが知られる。なお近世の郷荘名として狩野荘36か村と見える(新編相模)。明神ケ岳(狩野山)の北麓から酒匂川の南岸および狩川両岸一帯の地で,現在の南足柄市・足柄上郡開成町・山北町の各一部を含んだものと思われる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7302898 |