鎌倉郡

天正19年当時郡内村数は推定81か村,うち53か村が徳川氏の一円直轄地,また7か村が鶴岡社等寺社領からなりこれが当郡の所領構成の特質となっている。この後寺社領は特に大きな変化はないが,享保元年では全84か村のうち幕府領23か村,幕府領と旗本領相給6か村,旗本領55か村(66%)となる。こうした所領構成は中期から大きく変わる。文化8年以降当郡村々も三浦半島諸村とともに,海防の関係から陸奥会津藩・武蔵川越藩・長門萩藩・肥後熊本藩等の支配となり,慶応3年村々の多くは幕府領に変わり代官江川太郎左衛門の管掌となる。徳川氏の入国当初,天正18年郡内岡津村に代官頭彦坂元正の陣屋が設置され,国内をはじめ関東の直轄地のうち元正管掌地の基点となった,また城廻村の玉縄城は北条綱成の居城であったが,定説ではここへは同年に本多正信が1万石で封じられたとするが,正しくは水野忠守等による番城で,玉縄領は松平正次の預地となった。寛永2年正次の子正綱が大名となり甘縄藩が成立したが,元禄11年上総国大多喜へ転封,甘縄藩は廃藩となった。村数と郡高は,正保元年81か村・2万3,735石余・永1,596貫文余,元禄15年89か村・2万7,645石余・永1,348貫文余,天保5年89か村・3万1,007石余・永1,346貫文余,明治元年90か村・3万1,523石余・永1,322貫文余である。他郡と違って当郡の高には永高があるが,これが寺社領高である。天正19年彦坂元正は旧寺社領に検地を実施し,新たに山内村・雪ノ下村・大町村・小町村・扇ケ谷【おうぎがやつ】村・二階堂村等に大寺社の所領を設定した。寺社領は徳川氏の寄進という形式によって設定された。この結果たとえば鶴岡八幡宮領840貫文・円覚寺領144貫文余・東慶寺領112貫文余・建長寺領95貫文余等々が決定した。寺社領は1村にまとまることなく,たとえば鶴岡社領は雪ノ下村125貫文余・扇ケ谷村98貫文余・乱橋村68貫文余・本郷村458貫文余・浄明寺村89貫文余等,幕府領や他の寺社領との相給で設けられた。寺社領の永貫は1貫文=1石8斗替えで,鶴岡社領永840貫文余は1,572石余となるが,郡内寺社領永1,323貫文余は2,524石余となり,これは郡高の約8.8%に当たる。寺社領は他領と違い棟別銭とか反銭など近世にはない戦国期と同様な年貢を負担した。当郡の検地は旧寺社領に天正19年,幕府領へは延宝6年と貞享元年,甘縄藩領は慶安3年に行われた。旗本領は地頭によって異なるが,秋葉村・名瀬村本多氏領には天正19年に,また阿久和村安藤氏領へは江戸期を通し6度もの検地が実施された。そのため安藤氏領農民は,寛保3年老中松平信祝へ駕籠訴をし地頭の苛政に対抗した。領主と農民との抗争はこれより以前,慶長4年円覚寺領百姓が寺の過重な反銭・棟別銭賦課を代官へ愁訴している。また元和3年には旗本領である名瀬村農民が地頭佐野氏の苛政によって逃亡するという事件が起きた。さらに元禄7年にも上飯田村農民が逃亡し,地頭が逼塞を命じられている。郡の中央を北東から南東に東海道が横断し,その中央に戸塚宿がある。戸数260戸のうち本陣2・脇本陣3・旅籠屋39からなっている。高座【こうざ】郡藤沢宿三町の1つに大鋸【だいぎり】町があるが,同町は当郡内に属している,同町には時宗の総本山遊行寺があり,天正19年100石の朱印地を寄進されている。また片瀬村の南の海中に江の島がある。日本三弁天の1つ弁天社や本宮があり,庶民の参詣でにぎわった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7302916 |





