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木月村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。橘樹郡のうち。寛永10年・元禄10年・幕末とも旗本森川氏・三宅氏・内藤2氏の4給。なお寛永2年8月8日の森川六左衛門への知行宛行状には「稲毛領木月村弐百廿石」と見える(記録御用所/県史資8上)。村高は,「田園簿」では715石うち田477石・畑238石,「元禄郷帳」987石余,「天保郷帳」1,003石余,「旧高旧領」では935石余うち森川氏知行220石・三宅氏知行500石・内藤精之丞知行150石余・内藤孝之助知行64石余。検地は寛永5年。「新編武蔵」によれば,東西8町余・南北10町,家数99軒,水田が多く,用水は二ケ領用水を利用,産物に素麺があり農間には78軒の家で製造された。神社は鎮守の矢倉明神社のほか伊勢宮・第六天社・天王社などがあり,寺院には日蓮宗妙海寺・真言宗大楽寺がある。なお矢倉明神社は,後年村内11社を合祀,明治42年に住吉神社と改称。用水は二ケ領用水のほか鶴見川を利用するが,享保17年には当村および明津【あくつ】・蟹ケ谷・井田村の4か村と,矢上・箕輪・南綱島・北綱島村の用水組四ケ村との間で,矢上堰の改修をめぐって争論が起きた(川崎市史)。明和2年の家数108軒(中原町誌)。天保14年の村明細帳によれば,村高987石余,反別は田25町1反余・畑8町4反余,葭萱場2反余,肥料に酒粕・醤油粕・干鰯などを用い,農間余業は男女とも縄・俵などを作った。また川崎宿に出役し,定助郷高272石を勤めた(慶大古文書室所蔵/県史資8下)。年貢米は,はじめ上平間村まで運び,そこから船で多摩川を下り江戸へ送ったが,江戸末期には南加瀬村まで運び,そこから鶴見川を下って江戸へ送った(川崎市史)。副業として紙漉き・素麺作りが行われた。名主は徳植氏・伊藤氏が勤めた。明治元年神奈川府を経て神奈川県に所属。明治6年に開設された木月学校は同22年廃止。同22年住吉村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7303200