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小坪郷(中世)


 鎌倉期~室町期に見える郷名。相模国鎌倉郡,のち三浦郡のうち。小壺とも書く。「平家物語」に「小壺坂合戦之事」として「三浦別当義澄已ニ合戦初ルト見テ,小坪坂ヲヲクレ馳ニシテ押寄ス」と見え,治承4年8月の源頼朝の挙兵に際して,三浦氏は源氏方として300余騎で「由井・小坪の浦」において,平家方の畠山氏と戦っている。また同じく「源平盛衰記」には「三浦ハ小坪・衣笠ノ軍」と見えるほか,「重忠十七の年小坪の軍に会」ともあり,当地は頼朝挙兵の際の合戦場として知られる(県史資1‐古942)。また「吾妻鏡」寿永元年6月1日条に「小中太光家小窪宅」,同年12月10日条に「小坪之宅」と見え,源頼朝は当地の小中太光家宅に愛妾亀前を隠しておき,近くの浜に遊んだことがしられる。建久4年7月10日にも,海浜涼風の地としてしられる当地辺りに,将軍頼朝が赴いている。正治2年9月2日条には「羽林令歴覧小壺海辺給,小坂太郎 長江四郎等儲御駄餉」と見え,恒例の笠懸が行われ,現在の逗子【ずし】市小坪の小坂天王社が小坂太郎住宅跡であると伝える。また承元3年5月28日条によれば,梶原兵衛太郎家茂が「小坪浦」を逍遥し帰去のところ,土屋三郎宗遠が家茂を殺害したという。なお当地は鎌倉の南端にあたり,元仁元年12月26日に四角四境鬼気祭が行われているが,その四境とは「東六浦,南小壺,西稲村,北山内」といい,嘉禎元年12月20日にも同様にとり行われている(吾妻鏡)。また「鎌倉年代記裏書」によれば,乾元元年5月20日に「小壺」より黒雲が起き,鶴岡社壇に至り異変が起きたという(続大成)。また元徳元年12月22日の長井道可頼秀譲状(毛利家文書4/大日古)には,頼秀が嫡子貞頼に譲与した鎌倉の土地のうちに「こつほ」と見える。南北朝期の延元2年9月,北畠顕家らの西征にともない,「武州薊山,鎌倉,小壺……」などは合戦の場になっており(元弘日記裏書/大日料6‐4),「関城書裏書」にも同様に見える(群書25)。また康安2年4月19日の相模国鎌倉郡小坪分帳注文(黄梅院文書/県史資3上‐4400)には,「相模国鎌倉郡小坪東西南北各々半分円覚寺黄梅院預事」と見え,当地は円覚寺黄梅院領であった。同文書に,地内の小字として「くのや」「うはかたい」「ほりのうち」「きたかやつ」などが見えることから,当地は,現在の逗子市の久木・小坪などを中心としたかなり広い一帯をさすものと思われる。永和4年8月日の黄梅院文書目録によれば,「相模国小坪文書案六通」があり,応安2年4月17日に「小坪郷諸役免」の制札1通が出されている。さらに康暦元年11月9日の同目録にも「一通 小坪郷一円御吹挙」と見え,当郷は黄梅院の支配下にあったことがしられる(同前4947)。同年5月3日の将軍足利義満御内書(同前4831)によれば,義満から鎌倉府足利氏満に御内書が下され,当地が足利尊氏の追善のために黄梅院に寄進されたことがしられる。応永4年7月20日の鎌倉公方足利氏満寄進状(同前5187)には,黄梅院が氏満より「小坪残半分替」として,武蔵国崎西郡葛浜郷などを与えられた旨が記され,さらに同年11月20日にも,当郷の替の不足分として武蔵国賀美郡などの土地が与えられている(同前5197)。なお応永33年6月晦日の黄梅院文書目録(同前5760)に「小坪替地寄進状 二通〈永安寺殿〉」などが見える。また「湘山星移集」によれば,応永23年に上杉禅秀の乱が起きたが,その10月2日の夜,鎌倉公方足利持氏は,浄妙寺東の御所にいたところを関東管領上杉禅秀に急襲されたため,近侍木戸将監にともなわれ,御所を馬で出て,十二所から当地に出て,前浜を経て佐介に向かったという(続群21下)。同様の記事は,「鎌倉大草紙」にも見える(群書20)。また,「下総小金本土寺過去帳」にも「曽谷四郎妙典庚申年カマクラ小坪谷 永享十二 四月」とあり,当地名が見える。なお「鶴岡八幡宮寺社務職次第」の定尊の項には「鎌倉郡谷七郷事,小坂郷〈小坪〉」とあり(群書4),当地は鎌倉郡のうちであったことがしられる。戦国期には「快元僧都記」天文4年7月10日条に,檜木材木等葺板1,200枚が船で「小坪浦」に着いたとあり,同6年7月15日にも「小坪浦」に着き,同16日条には「小坪之浦鳥居木,由井浜之鳥居際へ以数千人引上畢」と見え(神道大系),鳥居木の陸揚げ地となっている。その後「役帳」には,小田原北条氏の御家中役之衆の石上弥次郎の所領役高として「七拾八貫六百廿六文 三浦 小坪」と見え,永禄年間以前に当地は三浦郡に属するようになったものと思われる。また永禄5年8月2日の北条氏康判物案写(紀伊続風土記附録/県史資3下‐7281)によれば,「三浦郡小坪」の78貫626文が,前年の約束にもとづき水軍支配の梶原吉左衛門尉に宛行われており,さきの石上弥次郎から梶原氏へ所領が移動したものと考えられる。同6年7月11日の北条氏康判物案写(同前7333)にも「三浦小坪郷」について同様の旨が記される。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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