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座間村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。高座【こうざ】郡のうち。元和年間に領主内藤修理亮が菩提寺を八王子往還に沿って建立して座間新宿と称し,村民を移住させて,慶安年間には座間村宿組・座間村入谷ノ組と称した。その後寛文年間久世大和守の検地により,座間入谷村を分村し(皇国地誌/歴史同人紅葉坂3),座間宿村と称した。以後,村名は「元禄郷帳」「天保郷帳」では座間宿村,「旧高旧領」では座間村と見える。寛永10年武蔵忍【おし】藩領,元禄10年幕府領,幕末には旗本勝田氏・大久保氏知行と幕府領からなる。村高は,「元禄郷帳」761石余,「天保郷帳」784石余,「旧高旧領」871石余うち勝田氏知行554石余・大久保氏知行213石余・幕府領96石余・宗仲寺領7石余。「新編相模」によると,江戸から12里,座間入谷村を含めて東西26町半・南北19町,家数175軒,飛地が新田宿村・四ツ谷村にあり,7月10日・12月25日に市が立つ。また延享2年堀江荒四郎芳極,寛政2・3年江川太郎左衛門英毅,同11年大貫次右衛門光豊らが検地を行った流作場がある。地内西部を八王子往還が通る。元和3年徳川家康の遺体を日光へ送る際に地内を通った。その際武州木曽村まで役夫を出したことから,以来人馬(3人,1匹)が常備されて荷物を継ぎ送るようになる。また戸塚宿の助郷村となる。鎮守は鈴鹿明神社。ほかに飯綱権現社・天神社・浅間社・山王社・御岳社・明王権現社・神明宮・第六天社・稲荷社がある。寺院は浄土宗来光山峯月院宗仲寺・古義真言宗雪光山極楽院安養寺・法華宗休息山遠光院円教寺,ほかに大日堂がある(新編相模)。江戸初期,水利は鳩川に頼っていたが,寛文年間に磯部・新戸・座間入谷・新田宿の各村とともに磯部に相模川からの取水口を設け,堀を掘って灌漑をするようになった。9か村入会の座間野では,当村から20石の年貢を負担し,他村からは賃貸料を取っていたが,正保4年には境界争いが起き,慶安3年老中の裁定をうけている(大矢家文書/相模原市史)。座間野入会地のうち170町歩が享保15年頃当村と座間入谷村の共有の秣場となり,文久3年より明治初年にかけてその北半部を村内各戸に均分して開拓した。文政初年,滝沢(稲垣)仁平が塾を開く。明治元年神奈川府を経て神奈川県に所属。「皇国地誌」によると,税地は田72町7反余・畑227町4反余・宅地13町6反余・山林42町7反余・藪5反余・菅野1反余・芝地1反余,戸数220・人口1,119,馬35,水車1,人力車1,荷車20,鳩川で水田39町2反余を灌漑した(歴史同人紅葉坂3)。同6年座間入谷・新田宿・四ツ谷の各村とともに座間入谷村に風牛学舎を開設,同8年分離して座間村学校を開設。同年座間入谷村と共同の鎮守であった鈴鹿明神の財産の分割などに関係して,大審院にまで訴訟する深刻な紛争を起こし,解決までに数年を要した。同年,飯綱権現社を座間神社と改称。開墾した旧秣場を多く桑園とし,養蚕がしだいに盛んになり,5・10の日の市場も再開された。同22年座間村の大字となり,飛地は新磯の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7303584