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玉縄(中世)


 戦国期に見える地名。鎌倉郡のうち。甘縄とも称した。「鎌倉公方九代記」に「相州玉縄の住人瀬河兵衛宗泰を始めて,屈竟の射手卅余人」と見え,応永3年小山若犬丸が小山城で挙兵した際,鎌倉公方足利氏満の手に属して当地の住人瀬河宗泰なる者が活躍したことが知られる(小山市史史料編)。下って「北条記」によれば,永正9年「十月ニ相州甘(玉)縄城築」と見え,北条早雲が当地に築城している(続群21上)。この城は,三浦の新井城による三浦義同の押えとして,また武蔵方面からの援軍を食い止めるため築かれたもので,三浦に面した南側に最も厳重な防衛施設が残っている(鎌倉市史考古編)。永正13年北条早雲は新井城を囲み,これを救援するため江戸城から上杉朝興が相模国中郡あたりに出陣した。早雲は玉縄城の北方に陣取って朝興と戦い敗退させ,7月11日には新井城も落城した(北条記/続群21上)。以降この玉縄城は東相模における拠点となった。城主ははじめ北条氏綱の弟氏時,その没後は北条綱成―氏繁―氏勝と親子3代が城主となっている。この間の主な合戦としては,大永6年11月安房の里見義弘が,大挙して鎌倉に侵入した際,城将氏時が戸部川畔に陣してこれを退けた戦い(玉縄首塚碑銘/鎌倉市史考古編),永禄4年3月上杉謙信が鎌倉に入る時の攻城戦(北条記/続群21上)などがある。なお永禄4年3月3日の北条氏康判物では,大平清九郎に対して「今度於玉縄,尽粉骨,可抽忠信事肝要候」と述べている(大平文書/県史資3下‐7194)。大永4年4月10日の北条家制札によれば,当麻宿(現相模原市)に対して「玉縄・小田原よりいしと(石戸)ともろ(毛呂)へわうふく(往復)のもの」で虎印判状を所持していないものは伝馬を仕立てることを禁じている(関山文書/県史資3下‐6576)。天文元年から北条氏綱は大永6年に里見義弘によって破却された鶴岡八幡宮の造営に着手しているが,これに関する記事が「快元僧都記」に散見する(神道大系)。天文元年10月17日条には「卯刻,自玉縄氏綱社参,侍十四,五人,若党廿人計被召連」と見え,当時北条氏綱は玉縄城に滞在し,ここから鶴岡八幡宮に社参していたことが知られる。以降,同2年5月29日には鶴岡八幡宮の神主が玉縄城に召されており,同3年6月2日・同4年7月27日には小田原から氏綱が着城し鶴岡八幡宮に社参している。また同5年4月24日にも「此間氏綱玉縄在城也」とあり,同年10月10日には氏綱・氏康親子が着城,同じく6年4月26日・7年1月晦日・9年9月21日と氏綱が玉縄城に来ている。また「快元僧都記」天文2年8月16日条には「今日奈良大工伴工十人召連玉縄へ到着由申」とあり,当地が鶴岡造営の拠点であったことが知られるが,同3年2月1日条には「玉縄小番匠十人,伊豆大工十人,鎌倉大工・奈良衆十人,合四十人宛」と見え,当地にいた職人もこの造営に参加していたことがわかる。天文3年2月22日の北条氏綱判物写によれば「玉縄番匠」の奉行人として蔭山図書助・渡辺次郎三郎・神保宮内入道の名が見えている(快元僧都記同年2月18日条/県史資3下‐6654)。また「玉縄番匠,大工次郎左衛門,号小番匠,小奉行者鵜野筑後入道・杉本⊏⊐・近藤弥三郎」とも見える(快元僧都記天文3年2月18日条)。なお戦国期の「役帳」には,小田原北条氏職人衆番匠五郎三郎の所領役高として「三貫五百五拾文 玉縄鎌倉内」と見える。天文19年4月1日の北条家朱印状写によれば,相模国東郡磯部郷(現相模原市)に対して公事を免じているが,「但,陣夫并廻夫・大普請・玉縄之城米銭をハ可致之」と定めている(相文/県史資3下‐6887)。永禄6年6月10日の北条家朱印状によれば,相模国東郡・三浦郡および武蔵国久良岐【くらき】郡の役として5年に1度玉縄城を修理することを定めており,城の塀5間(80貫役)が田名郷(現相模原市)にあてられ(陶山静彦氏所蔵文書/県史資3下‐7331),同じく8年8月12日にも田名郷に「玉縄清水曲輪塀」の修理が(同前7462),同年9月3日に「玉縄城米銭三百六十文」が(同前7464),同9年閏8月10日にも「玉縄城米銭百八十文」が(同前7513),12年8月28日にも「玉縄城米銭三百六十文」が(同前7855),それぞれあてられている。一方,永禄8年5月25日に「駒林郷小代官・百姓中」「成瀬郷小代官・百姓中」に対して棟別銭を「玉縄御蔵へ可納之」と命じたのをはじめとして(武文・新編武蔵/県史資3下‐7444・7445),田名郷・寺尾郷にも玉縄へ納めるよう命じている(陶山静彦氏所蔵文書・武文/同前7509・7615・7853・7994)。その後天正17年10月,玉縄城主北条氏勝は伊豆山中城に遣わされたが,翌18年3月豊臣秀吉軍のため山中城を落とされ,氏勝は「居城玉縄之地」へ引きこもったが(北条記/続群21上),4月21日秀吉の軍門にくだった(関八州古戦録)。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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