三崎荘(中世)

鎌倉期から見える荘園名。三浦郡のうち。「和名抄」の御埼郷が荘園化したものと思われる。建長5年10月21日の近衛家所領目録に「一,請所……相模国三崎庄〈冷泉宮領内〉」とあり,11世紀には三条天皇の皇女冷泉院宮所領であったが,近衛家に伝領されたことがわかる(近衛家文書/県史資1‐431)。また「吾妻鏡」の建久5年閏8月1日条には,源頼朝が山荘を建てるため三浦三崎津に出かけたとあり,同年9月6日には完成した「三浦三崎別業」で小笠懸などを楽しんだ旨が記されている。その後も何度か「三浦三崎御所」では様々な催しが行われ,将軍以下の遊覧の場となっていた(吾妻鏡建久6年8月26日・承元4年5月21日・建暦2年3月9日条)。その後,建武2年9月27日足利尊氏充行下文には,三浦介平高継が勲功賞として与えられた所領のうちに「三浦内三崎」と見える(宇都宮文書/県史資3上‐3233)。同年7月の中先代の乱で,高継の父時継は北条方について誅されたが,子の高継は足利方として活躍した結果,父の本領跡をはじめとして諸所を与えられた。三浦半島に本拠をもつ三浦氏は,高継の子高通が相模国の守護となり,観応2年10月7日相模守護三浦高通禁制では,「右大将家法華堂領三崎庄内大多和村」での乱暴狼藉を禁じている(法華堂文書/同前4093)。これは当荘の範囲を示す唯一の史料であるが,当荘内に大多和村(現横須賀市)が含まれていること,当荘の一部が鎌倉法華堂領であったことがうかがわれる。至徳2年12月5日の将軍御教書によれば,「相模国三崎庄……領家職」は近衛基嗣から楞伽寺へ寄進されたものであるというが,三崎荘として史料に見えるのはこれが最後である(海蔵院文書/県史資3上‐4998)。文明18年8月から9月初旬にかけて,京都の道興准后は房総半島金谷付近から舟で「みさき」に上陸している(廻国雑記/群書18)。永正10年4月17日足利政氏判物に「敵指詰之時,於三崎要害励戦功」と見え,この時期には当地に要害が築かれている(岩本院文書/同前3下‐6509)。永正14年3月3日上杉朝良書状写に,「去年七月三崎落居,道寸父子於城中討死」とあるように,北条早雲によって三浦半島に追いやられていた三浦氏は,永正13年7月三浦義同・義意父子が新井城(三崎町小網代)で討死するに及んで滅亡した(秋田藩採集家蔵文書/同前6531)。以後,当地は小田原北条氏の勢力下に入り,安房里見氏の水軍に対する北条氏水軍の拠点として,重要な位置を占めるようになる。「役帳」には,御家門方で北条為昌の家臣であった山中彦十郎の所領役高として「廿貫文 三浦 三崎之内」とあり,また半役被仰付衆の三崎十人衆の役高として「廿三貫五百文 三崎内 新給ニ被下 海賊被仰付ニ付而 諸役御免」と見える。三崎十人衆のうち,「北条五代記」から出口・亀崎・鈴木・下里・三留の5人が知られるが,北条氏の水軍として組織されたのである。年未詳だが里見氏の相州攻めに関する内容から永禄4年かと推定される11月9日付の北条氏康感状案写に,「去八日房州衆,三崎へ成地之処,各及防戦」とあり,梶原吉右衛門以下の海賊衆(水軍)の活躍が見られる(紀伊続風土記附録/同前7202)。永禄12年と推定される3月23日の北条氏康書状には,「追,兵粮儀ハ三崎ニて,自山中前可請取」と見え,内藤廿騎衆を三崎まで召集している(富士浅間神社文書/同前7726)。元亀3年壬申(永禄3年説もある)6月18日北条綱成判物写では,三浦の上宮田で竹木を切り取る者があれば,すぐに「当津三崎」に申上せよと命じている(相文/同前8128)。また元亀3年9月15日の北条氏規朱印状には,「於三崎法満寺之屋敷……自兼日南条因幡守陣屋之儀ニ候」とあり,氏規の重臣南条昌治の陣屋が,三崎法満寺内に置かれていたことがわかる(円照寺文書/同前8138)。天正13年7月22日北条家掟書写は,田津の浜代官・百姓中・舟持中にあてたもので,船の出入を厳重に取りしまり「三崎へんを越,梶原・山本ニ手判を取而出船事」と命じている(相文/同前9100)。天正18年正月4日北条氏規朱印状写では,被官人は「御崎・小田原」に移動させ,妻子・郎等・兵粮・荷物以下は小田原城に入れるようにと,「陣触」を行っており,また5日の氏規朱印状にも,辰千代被官はことごとく「三崎・小田原」へ召し寄せるようにとある(行豆順行記・岡本文書/同前9550・9552)。来るべき豊臣秀吉との対陣をひかえて,当地一帯は騒然たる様相を呈しはじめたといえよう。天正18年4月,小田原北条氏は秀吉に降服したが,同年6月以降に作成された関東八州諸城覚書には「三浦見崎 北条美濃守(氏規)五百キ」とある(毛利文書/同前9771)。これは豊臣方の敵状調査の実態を示すもので,三崎城は北条氏規の掌握するところで,500騎ほどの兵力が動員されていたことがわかる。三崎荘の荘域は,現在の三浦市三崎を中心とする一帯で,旧三崎町・旧初声村・旧南下浦村などを含んだものと推定される(地名辞書)。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7305153 |