三条(中世)

鎌倉期から見える地名。越後国蒲原郡のうち。鎌倉末期の大中臣氏略系図によると,近藤実広の子孫が鎌倉中期に大槻荘の地頭となって三条付近に居住し,三条氏・大槻氏・堀切氏・栗林氏などを称するようになったという(桐村文書/茨城県史研究48)。永徳2年の権大僧都覚有配分目録に「三条七日市場」とあり,定期市の存在が知られる(米良文書)。南北朝期に越後に入部した長尾氏は,三条を蒲原支配の拠点としたが,守護代となって府中に移ったあとは,長尾氏の被官山吉氏が代理を勤め,三条島之城に拠った。三条島之城は越後の内乱の際にはいつも戦場になっている(反町中条文書享徳3年孟夏28日付中条秀叟記録など)。天正5年に三条城主山吉豊守が亡くなると,山吉氏の所領の半分は召上げられて弟景長は木場城(現新潟市)に移され(山吉家伝記之写/三条市史資料編2),三条島之城には神余親綱が入った。同6年に起こった御館の乱で,親綱は上杉景虎方につき,同8年6月に三条城は陥落し(歴代古案/越佐史料),三条城主は甘糟長重に代わった。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7310244 |