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楚川村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。蒲原郡のうち。開墾・治水に詳しい堀勘五郎が,慶長元年本楚川新田を開き,翌2年楚川村を開発したと伝える(中蒲原郡誌)。しかし,実際の開発年は慶長年間以前にさかのぼると考えられる。曽川村とも書き(越後名寄),明治期になってからは曽川村と表記。慶長17年分御蔵納同払方帳には東曽川と見える。新発田【しばた】藩領。村高は,「正保国絵図」124石余,「元禄郷帳」257石余,「天保郷帳」841石余。純農村。名主は,はじめ堀家,明和年間頃からは古田家。古田家は新津組大庄屋も勤めた。鎮守は諏訪社。寺院は真宗大谷派最福寺・広誓寺。幕末に当村から儒者青木青城が出た。青木は明治元年村松藩に召し抱えられ,藩政改革を行おうとしたが,同3年病没。明治3年村明細帳によれば,戸数144(本家33・名子家63・間脇26・借家1・寺2)・人口787。また,流糸網役・鮭網役を納めており,漁業も行われていた。明治5年嘉木村に省弊舎開設,同11年曽川校と改称,同12年当村に校舎移転(のちの曽野木小学校)。明治10年苗代新田・下新田を合併。同12年からは中蒲原郡に所属。同22年曽野木村の大字となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7311500