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中条村(近世)


 江戸期~明治22年の村名。魚沼郡のうち。江戸前期は信濃川右岸,および飛渡川流域の山間に散在する20か村の総称。本村である中条村のほか,加勝村・八幡村・市之沢村・太子堂村・宇田ケ沢村・上原新田・菅沼村・鶴島新田・新水村・桜町新田・魚田川村・団子島新田・轟木村・峠新田・入山村・中条新田・小貫【こつなぎ】村・北原新田・両枯木俣村からなる。寛永元年から高田藩領,天和元年からは幕府領。村高は,「正保国絵図」554石余,「天和高帳」1,113石余(新田を除く枝村分を含む),「元禄郷帳」787石余,「天保郷帳」では枝村19か村分を含み2,003石余。新田の多くは高田藩領松平光長時代のもので,そのほとんどは信濃川沿いの安定地や川の中州に位置する。万治2年城島新田,寛文2年北原新田・鶴島新田,同4年上原新田,同10年中条新田,延宝元年団子島新田・峠新田・杉島新田,同8年桜町新田が次々と開かれた(元禄7年妻有組村名書上帳)。このうち北原新田・中条新田は飛渡川を上流で堰上げし,用水を導入して開いたものである。上原新田は開発当初は畑新田とされている。飛渡川は夏季も渇水することなく,川沿いの田地を潤すばかりでなく,慶安年間開発の下条地区上新田・中新田へも用水を供給した。しかし旱天続きの年は用水不足を来し,しばしば水論を起こしている。ことに正徳年間,飛渡川の水をめぐって山里双方間に起こった水論では,以後双方とも新田不開発を条件に和解している。しかしその後も切り添え新田が絶えず,宝暦6年新田検地の際には紛争が再燃するなど飛渡川をめぐる紛争は絶えなかった。また,信濃川沿いの新田は水害が多く,江戸中期に消滅した新田もある。元禄5年の総村の家数194・人数1,706(中魚沼郡誌)。江戸中期以降は各村が中条村に吸収され,郷帳類では中条村1村として扱われるようになる。庄屋は2軒あり,東中条庄屋は山地村々および北原新田・中条新田・太子堂村・八幡村を,西中条庄屋は中条本村を扱っており,長百姓が交替で勤役した。交通の上では善光寺街道とも呼ばれる北国脇街道の要衝に位置する。越後縮の3市場といわれた十日町・小千谷・堀之内を結び,本村と魚田川に継立場が設けられ,十日町・下条・木落・堀之内の明神へそれぞれ継立てをしている。河川交通でも信濃川を上下する妻有船道の中条河岸があり,廻米の津出し場となり,貨客の便があり栄えた。寺院は曹洞宗円通寺・同宗長泉寺。円通寺住職惟寛は,文化文政年間に寺子屋妻有学舎を寺内に創設,北越俳壇の巨匠小杉蘿斎など多くの人材を育てた。明治7年中条小学校が開校,四日町校・新座校・新水校・轟校を付属校とした。同12年からは中魚沼郡に所属。同22年市制町村制施行による中条村となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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