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泊町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。新川【にいかわ】郡のうち。加賀藩領。寛文10年の村御印では村高は567石・免5.2,ほかに小物成として山役87匁・伝馬役89匁・浦役4匁・鮭役8匁・鮎川役5匁・猟船櫂役10匁・室屋役60匁・紺屋役45匁・間役8匁4分があった(高物成帳写)。貞享元年175石余の検地引高,享保3年48石余の屋敷替引高や,同8年1石余をはじめ天保9年12石に至る合計15石余の手上高などの増減によって,天保11年における村高は310石となった(高免帳/杉木文書)。当町は,中世末期頃成立したものと考えられ,当初は笹川の右岸,宮崎の西南の和倉【わくら】という地に9軒が存在し,漁業を中心としてかたわら旅籠・茶屋などを営み,このころより泊と称されるようになったといわれる(下新川郡志稿)。元和3年には家数70軒余を数えたという。同年正月,上町【かみまち】から発した火災により全町類焼したが再建され,同時に境村にあった収納米蔵を泊町に移築した。しかし,この土地(フルコと俗称,越中志徴)は,山海に迫られた狭隘な所であったため,正保4年に西方の笹川の右岸河口付近に移転した。承応頃には家数71軒であったとされている(金森文書/下新川郡史稿下)。寛文3年に給人蔵が設置され,駅馬25匹が配置された。また毎月4・8・14・18・24・28日が当町の市日と定められ,元禄8年には赤川村から収納米蔵が移築された。また宝永6年には蔵宿小沢屋助右衛門が御宿(脇本陣)に指定されるなど,加賀藩による行政的な措置がとられた。享保2年には家数278となったが,同年9月,越中・能登の海岸地帯を襲った高波により,全戸潰れ家や波砂入りなどの被害に遇い,翌3年笹川左岸の道下【どうげ】村・大屋【だいや】村のうちに全町屋敷替えがなされ,往還道も一部付け替えられた。笹川右岸の旧地は以後元泊と称した。同18年に町の大部分に当たる242戸を焼失する大火があった。しかし,その後再建され,後背地農村の経済・文化の中心地として発展したが,一方では騒動の中核ともなった。明和5年,安政5年,明治2年などには,近村の百姓が当町に押し寄せ,蔵宿や大高持の屋敷を破壊したり,小作料の減免を要求する騒動が起こっている。ことに明治2年には凶作による年貢の減免などを要求して,塚越村(現立山町)忠次郎らを中心として新川郡一円に拡がったばんどり騒動は著名で,十村役伊東彦四郎家をはじめ泊町・大家庄【おおえのしよう】村,月山村などで11軒を打ち毀したが,当町で新政府の鎮撫隊に鎮圧された(越中史料3など)。村肝煎は貞享2年には浅井屋伝左衛門(泊町史料),享保元年には古沢屋九郎兵衛,寛延元年には病死した柚木屋権兵衛に替わって但馬屋善次,天明4年には小沢屋理右衛門などがつとめた(泊町史料など)。家数は元禄3年196,うち寺3・山伏2(加賀藩史料5)。寛政元年には家数347・人数1,776(巡見上使通行の刻請答の覚/竹中文書)。天保9年家数399・人数2,123(御道御案内人手帳),幕末期には家数426・人数2,371(越登賀海岸宿村家数人数等調理書)。収納米は泊の御蔵。鎮守は八幡宮。明治5年の戸数486(新川県区分表)。同年県下では最も早く郵便局が開設された。同9年石川県,同16年富山県に所属。同22年笹川右岸は宮崎村の大字となり,残余は下新川郡泊町の大字となる。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7320437