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吉作(近代)


 明治22年~現在の大字名。大正初期までは大字吉作村と称した。はじめ西呉羽村,昭和15年呉羽村,同29年呉羽町,同40年からは富山市の現行大字となる。傾斜地は明治30年頃まではサツマイモ・野菜等の雑作畑だったが,同40年頃に大部分が桑畑となり,大正期に入り新北陸道沿いに果樹栽培が盛んになった。明治40年土池弥次郎が東京興農園より梨苗30本・モモ苗70本を取り入れたのが始めで,特に梨は大正末期にこの地に適した長十郎梨の栽培に成功し,昭和8年からは大阪市場へも出荷するまでになった。昭和38年頃は総戸数158,うち農家戸数106(うち梨栽培農家数89),耕地面積81.55ha,うち水田23.33ha・畑地34.86ha・果樹園23.36ha(婦負郷土の自然と社会)である。向40年の梨栽培農家は110戸で,栽培面積32.5ha(富山市役所資料)。その後の農業構造改善事業では梨栽培の伸張が図られたこともあって水田の梨園化が進み,栽培面積は急増,専業の果樹園経営者もあらわれた。当地は梨栽培の中心地であり,販売先は大部分が富山市である(呉羽風土記)。また製茶や瓦工業も起こり,昭和23年頃には瓦では甲野・蒔坂各工場,製茶では吉作工場があった(呉羽・寒江・長岡村勢概観)。昭和42年世帯178・人口876(富山市統計書)。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7322579