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加賀国


織田信長の死後,柴田勝家と羽柴秀吉の対立で,一時は勝家に与した前田利家も,秀吉に与同した功により,能登国を安堵された上,加賀国石川・河北郡を加増されたので,所口【ところぐち】の小丸山城から,勝家の配下であった佐久間盛政の居城金沢城へ入り,尾山城と改名した。この時,加賀国の他の2郡である江沼・能美郡は丹羽長秀に与えられ,石川郡のうち松任【まつとう】4万石は,利家の長男利長に与えられた。この江沼・能美両郡と松任4万石の領有は幾多の変遷を経るが,2代藩主利長の慶長5年加賀藩に組み入れられる。寛永16年に退老した3代藩主利常は,能美郡など24万石を隠居領とし,次男利次に能美郡2万石と婦負【ねい】・新川【にいかわ】郡8万石の計10万石を分封して富山藩を,3男利治に江沼郡と新川郡の4万3,000石の計7万石を分封して大聖寺藩を立藩させた。万治2年に富山藩の能美郡2万石は領地交換によって加賀藩と大聖寺藩へ編入された。大聖寺藩へ入ったのは,能美郡の馬場・島・日末・松崎・佐美・串の6か村であり,残余は加賀藩へ入った。また,天正6年まで加賀国であった白山麓の牛首・風嵐・島・下田原・鴇ケ谷【とがたに】・深瀬・釜谷・五味島【ごみしま】・二口【ふたくち】・女原【おなばら】・瀬戸・杖・小原・丸山・須納谷【すのうだに】・新保の16か村は,翌7年に柴田三左衛門領となり,越前大野郡へ入れられた(白山麓十八ケ村留帳)。この16か村と能美郡荒谷村と尾添【おぞう】村は,寛文8年に幕府領となり,白山麓十八か村と通称された。このように加賀国は,河北・石川・能美郡が加賀藩領,江沼郡と能美郡6か村が大聖寺藩領,白山麓十八か村が幕府領として,江戸期をすごすのである。天明7年の加賀藩領の河北郡は村数254・村高7万8,043万余,石川郡323・16万9,892石余,能美郡247・10万4,057石余。明治4年の河北郡は268・9万2,123石余,石川郡は328・17万8,757石余,能美郡は249・11万2,312石余で,同年の加賀国戸数9万3,329・人口35万5,576(加賀藩史料)。大聖寺藩は,正保3年の村数132・村高7万356石余,貞享元年140・8万900石余で,享保6年の郡方人口は2万4,800(7歳以上),文化8年の郡方3万2,790(同前)・町方3,611である(加賀市史)。幕府領の白山麓十八か村は,元禄3年の村高430石余,文久3年の戸数1,524・人口3,744であった(山口家・杉原家文書目録)。陸上交通は,北陸街道・鶴来街道が主要街道で,元禄3年の加賀藩町方・宿方の戸数は,小松1,650・寺井133・粟生75・水島48・源兵衛島42・下柏野87・荒屋柏野56・松任528・野々市309・金沢1万3,610・宮腰1,260・鶴来347・森下132・津幡271・竹橋93・高松199・湊138・安宅219・本吉523であり,これらの宿方が交通・運輸の拠点であった。大聖寺藩では,橘・大聖寺・動橋・月津に駅馬が置かれた。加賀藩・大聖寺藩・富山藩境は,支藩であるため関所はおかれなかったが,越前藩境には大聖寺関(享和3年以降口留番所)・橘番所がおかれた。また,幕府領境には,別宮【べつく】・河原山・木滑【きなめり】に口留番所があり,別宮奉行の配下にあった。海運は,浅野川河口の大野,犀川河口の宮腰,手取川河口の本吉が中心で,大聖寺藩には,塩屋の堀切港があった。いずれも北前船を中心として栄え,銭屋五兵衛・木谷藤右衛門などの海商が知られる。白山に源を発する手取川・大日川などの諸河川は,平野を形成し,加賀国の生活舞台となるが,また,洪水とのたたかいの歴史でもあった。手取川の七ケ用水も,耕地を潤す用水であり,また,物資運搬の用水路でもあり,富樫用水掘削で苦労した枝権兵衛の名が知られる。産物は,米・麦等の農産物や材木・枚木【ばいぎ】の林産物の他に,相滝・市の原・辰巳・二俣村を中心とする紙,打越・沖・不動嶋村等の畳表,近岡・粟ケ崎・松寺村等の菅笠,瀬領村等の絹などが有名。また,山中・粟津・山代・中宮・湯涌の温泉も江戸期から知られ,湯治場としてにぎわった。外日角・浜村の海岸線では製塩も行い,石川郡の平野では菜種油も生産された。九谷焼・山中塗の産業も郡内にあり,金箔をはじめ金沢にも数多い産業があった。明治2年,加賀藩領は金沢藩,大聖寺藩領は大聖寺藩,幕府領は本保県へ編入し,同4年7月に金沢・大聖寺県ができ,同年11月大聖寺県は金沢県に編入された。同5年に金沢県は石川県と改名し,本保県に属していた白山麓十八か村も石川県に編入され,加賀国全域が石川県となった。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
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