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七尾町(近世)


 江戸期~明治22年の町名。鹿島郡のうち。加賀藩領。天正9年前田利家は当地の小丸山に築城し城下町を形成。小丸山にあった気多本宮を明神野【めじの】に移し,山麓にあった寺院も城下へ配置し出城の役割を持たせた。2年後,利家は金沢へ移るが,城下町はそのまま残り,元和一国一城令で小丸山城が廃されてからも,当地は港町・商工都市として繁栄した。当地は所口町とも呼ばれ両者が混用されていたが,元禄15年七尾町全体を所口町と名称を統一。その後も依然混用が続き,明治8年七尾町と定めてから,ようやく町名が固定化した。元和2年「所口・府中両町屋敷検地絵図」には,竹町かたはらまち・うを町通・かわや町どおり・米町どおり・新【あら】町どおり・一本杉町どおり・とうふ町どおり・みそや小路どおり・さくじ町かたはらまち・ほしの町かたはらまち・大工町どおり・ひもの町通・大手町どおり・中小池【なかおけ】町どおり・ぬし町通・かち町通・川原町・馬喰町通,それと府中の名が見え,同業者が一定地域に集められた城下町の特色を示す。慶安2年に白銀【しろがね】町を加え(「ほしの町かたはらまち」は不明)本町18町と府中町となる。明暦2年,鹿島郡府中村の一部と同郡小島村の一部を加え,それぞれ東新町(翌3年東地子町)・西新町(翌3年西地子町)とするなど町域の拡大整備がなされた。明暦2年所口町の夫役・町夫は3,600人(七尾町旧記)。小物成は,承応3年に9貫842匁余であるが明暦3年には23貫801匁余と増加(七尾市史)。七尾町奉行は,慶長ごろまでは築城,米その他の軍需物資や陣夫の調達・輸送など兵站業務を遂行,元禄15年所口町奉行と改称され,所口町の町政一般,能登4郡内の小代官・足軽の掌握など能登全般の治安に当たった。町政運営には町役人が当たったが,その出務するところを,はじめ寄所といい,御祓川畔の味噌屋町にあった(江戸末期所口町絵図)。文政3年に町役所,安政元年町会所と改称。寛文6年の戸数1,428・人口7,473。能登最大の町であり,商工業・交通・北前船で知られる海運の中心地として栄えてきた。江戸後期の文化10年には四十物商90軒,外海船商35軒,外海船並商87軒,米秕商81軒などをはじめ68種1,099軒の商家があった。天保14年の小物成は,酒役1貫779匁余・外海船1貫554匁・猟船櫂役490匁・四十物船役129匁・地子役2貫300匁・浦役3貫・地子銀886匁余など合計13貫823匁余。七尾港は天然の良港で松前・大坂・江戸への遠海航路や加賀藩領内各湊への近海航路の中心的位置を占め,明治初期までは500石以上の帆船が100隻以上も常時出入し繁盛していたといわれる。文久2年加賀藩は,郊外の出崎海岸に軍艦所を設け,海軍の根拠地とし,語学所を設け,外人教師オスボンを招いた。慶応3年に英・米・仏の艦船が入港し,イギリスは開港を迫ったが実現しなかった。明治5年石川県に所属し,18町から24町となる。同8年所口町と混用された町名を七尾町に統一。同21年の戸数2,019・人口9,378(七尾市史)。同22年町制を施行。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7326826