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後山(中世)


 鎌倉期から見える地名。越前国坂北郡坪江郷のうち。河口荘綿両目等事所載の永仁6年8月23日付検注使迎料水津夫伝馬注文に「後山 伝馬一疋〈口付一人〉」と見える(北国庄園史料)。坪江上郷条々によれば「東西後山分」は本田20町4反小,佃6反,分米133石9斗1合,御服綿25両3分で,「松林院 応安六年記云」として「後山東西〈後山一族支配〉」と記されている(同前)。康正3年8月22日「同(坪江)郷之内後山御服〈七屯半,同(清承)知行分〉」が興福寺大乗院の経覚へ進上され,寛正3年6月には後山久清が経覚に対し「坪江上郷別納後山西方四分一之御服」去年分7屯半(代3貫750文)を沙汰している(大乗院寺社雑事記)。当地は以後も大乗院領として見え,その年貢は文明15年分4貫文,長享元年冬分3貫文,明応元年分2貫500文であった(大乗院寺社雑事記,大乗院記録/広島大学所蔵猪熊文書)。なお,天正3年の「越前国相越記」9月9日条によれば,坪江上郷は後山・中山・鳥越の3氏に配分されていた(山田竜治家文書)。また,嘉吉元年以降「鳥越」から大乗院へ御服綿が代銭納されているが,これは江戸期後山村の枝村であった鳥越村に比定される(坪江河口両荘所済引付/北国庄園史料,大乗院記録/広島大学所蔵猪熊文書)。当地の横山丘陵周辺には多数の城跡・館跡があり,「城蹟考」によれば石ケ谷館跡は朝倉氏の臣深町兵庫,中山城跡は同じく中山周防守の館,城跡は3つあり深町安芸守の城と時代不明のもの2つ。また現在の東山の近くには窯跡もある。




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「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7329624