福井城下(近世)

江戸期の城下名。越前国足羽郡のうち。福井藩の城下町。はじめ北庄の称を用いていたが,寛永元年福居と改称し,元禄年間の終わり頃から福井と記すようになった。柴田勝家が建設し,結城秀康によって整えられた。城下町の範囲は,慶長国絵図で見ると,北庄町1,442石余(すべて引高)・北庄松本村1,831石余(うち引高783石余)・三橋村1,693石余(うち引高308石余)・石場町地子571石余(すべて引高)・石場町畠760石余・木田村上2,326石余(うち引高201石余)・城之橋向村121石余(うち引高53石余)であったと思われるが,のちの領知目録や,「正保郷帳」をはじめとした郷帳類では北庄町が福居(井)庄町となり,福居(井)庄町外210石余(うち引高188石余)が加わる。福井庄町は北庄と称した時代以来の城下町主要部の総称で,慶長年間までに開かれた町は地子を免除されたから,福井庄町の高1,442石余はすべて無地子引高となっている。一方,福井庄町外は城下中心街の周辺に次第に形成された地方町の総称といい,元文年間の越前国絵図では,城下の南部,足羽川と荒川に囲まれた三角地帯に「福井庄町外」と書入れがなされていて,大体の位置が知られる。引高は町場が広がったためのちには合わせて4,969石余となり,「御城下廻所々引高」と呼ばれた。慶長5年越前へ入った秀康は,城下改築にあたり,南側を流れる足羽川を天然の外堀として利用したほか,東側に新川(荒川)を掘削し,北側と西側にも新しく堀を掘ってそれぞれ外堀とした。これら外堀の内側が侍町で,さらに本丸を中心に三~四重に堀を巡らせた。侍町はこのほか北堀の外側と足羽川の南にも一部置かれている。町屋は11の町組からなるが,足羽川で大きく南北2つに分けられ,九十九橋にちなんで橋北・橋南と呼ばれた。橋北では北堀と西堀の外側一帯に広がり,さらにその外側には寺町が置かれ,橋南方面は足羽山のふもとから南へ細長く延びていたが,やはりその西側と南側は寺町であった。寺が町屋と侍町を包み込むような形に移転配置されたのは,城下防衛の目的からにほかならない。町屋の中央を北陸街道が北上していた。北陸街道は,花堂【はなんどう】村から城下南端の赤坂町に入る。惣木戸が設けられており,拡張工事に際して北庄片町東側の町屋が移転させられ,その代償に煙草札株を与えられたことから煙草町とも呼ばれた。この辺りは木田地方で,専照寺の前を過ぎると荒町があり,一里塚が設けられていた。木田辻町から木田組に入って左折すると,右手に長慶寺が見え,東町から中町へ抜けると,右手に織田信長のころ唐人座・軽物座の座司であった橘家がある。左手一帯には多くの寺があり,堀町を通って右折すれば石坂町に出た。藤島神社は明治34年の移築であるからまだないが,黒竜神社を左に見ながら神宮寺上町に入ると,神宮寺町組となり,神宮寺中町を行けば,左手に結城家の菩提寺孝顕寺,右手に柴田勝家を葬る西光寺があり,神宮寺上町には福井藩の札所元締を勤めた慶松家があった。やがて石場町組に入るが,ここには札所元締も勤めた大名貸の金屋家や薬種業の上田家をはじめとする大商人が軒を並べ,松本町と半月交代で勤める伝馬問屋も置かれていた。石場町組の西方一帯が石場畑方で,足羽山麓に結城秀康の菩提寺運正寺(浄光院)や朝倉氏の菩提寺心月寺があり,西端の足羽川原に続く地域が石場寺町となっていた。石場畑方の手前で右折すると窪(久保)町で,さらに直進すれば九十九橋に出る。この橋は足羽川に架かる唯一の橋で,99間(実際は88間)あったので九十九橋といい,半木半石の奇橋として知られていた。足羽川の右岸は,百間堀の出口辺りから九十九橋下流の御舟町(現在の三秀プール辺り)まで石垣が積まれ,護岸も厳重であった。「名蹟考」には「岸一丈二尺,水五尺」と見えている。その対岸は,絵図類に石垣は見えず,長さ10町余の桃林があり,その美観が賞されたが,それは洪水などから城郭を守るための配慮とみられ,封建領主の施策として注意される。橋を渡ると,北詰には照手門があり,常夜灯や制札場も置かれ,ここが諸方への里程の起点とされた。また西側に駒屋家,東側に荒木家があり,慶松・金屋両家のあとに札所元締を勤めた。北陸街道は京町通に入ると,右手一帯が本町組,左手が京町組となり,それぞれ地方町が付属しているが,足羽川をやや下ったところに明里【あかり】米蔵が建てられ,藩主の舟方である水主組も置かれていた。京町の北にある呉服町の名は呉服商が集住したことに由来するが,その左手一帯が上呉服町組,右手が一乗町(長者町)組で,そのなかの紺屋町には結城から移った奈良家があった。本町組と一乗町組の東端,西堀に面した地域を,片側だけの町であることから片(片原)町といい,南に桜門(大馬出し),北に柳門(小馬出し)があって,城内への出入口とされていた。柳門あたりから北方一帯が下呉服町組で,西端に本端寺(東本願寺掛所)がある。北端が田原寺町,先手組や荒子部屋も置かれ,一乗町組常盤町との間には下級武士の屋敷があり,橋本左内もここで生まれた。北陸街道は筋違橋町で右折したあと東進するが,この辺りから曲折が激しくなり,祝町・小田原町を経て室町組に入る。室町組の南には北堀に沿って侍町の江戸町が広がり,北端が表御堂町で,本行寺(西本願寺掛所)をはじめとする本願寺派の寺院が集められていた。同町の南方,境町を過ぎた所が松本町組で,松本下町で左折北上して加賀口門にいたる。門の外が上油町で,一里塚があり,荒町(下新町)に続く。赤坂南端から荒町北端まで1里15町27間(名蹟考)。なお松本町組の東側には足軽組や小人組・先手組などの下級武士が居住していた。城橋町組は北陸街道沿いではなく,侍屋敷に囲まれ,百間堀と新川の間および新川の東側にあった。各町には木戸が設けられ,合わせて195か所,辻番216か所,番人363人という(名蹟考)。城下町への出入口は,北陸街道の入口赤坂口のほか,東郷道・大野街道の春日町口,越前海岸南部に通じる上浦道の山奥口,同じく中部海岸と越知山方面への館屋口,同方面の明里口,本郷谷から北部海岸への三橋口,三国街道の牧島口,北陸街道北出口の加賀口,勝山街道の志比口と地蔵町口,四居方面への中島口,勝見村から大野街道への勝見和田口と勝見河原口の13口があったが,赤坂口・春日町口・山奥口・館屋口をまとめて大橋口,志比口・地蔵町口・中島口をまとめて志比口,勝見和田口・勝見河原口をまとめて勝見口と総称し,7つにまとめて「福井七口」ともいった。町数は,侍町が文化年間頃に家中町45・足軽町52といい,また町屋は,慶長年間頃126,貞享2年142うち木田組12・木田地方6・神宮寺町組9・石場町組19・石場畑方8・本町組12・京町組9・上呉服町組10・一乗町組8・下呉服町組15,町外および三橋地方5・室町組13・松本町組9・松本地方1・城之橋町組6で,その後も正徳3年163,享保2年164,寛政元年188,享和3年213,文化年間頃221,明治初年269と増加する。享和3年には町組の門前数41,5地方内の町数46であり,この増加は門前と地方町によっていることがわかる。戸口は,武家方が寛延3年1,777軒,うち侍屋敷611・与力屋敷39・諸役徒屋敷76・坊主9・諸組1,042で,弘化4年総計1万2,832人,うち士分6,110(男3,049・女3,061),その他6,722(男4,000・女2,722)。士分以外に男が多いのは,小人や荒子の妻子が郡中に居住していたからである。町方は,慶長年間頃の家数5,131うち役家3,006・無役172・地代家162・地名子650・門前家407・地方家734,人数2万5,231うち家持1万3,367・地名子2,130・門前1,893・地方2,649・借家1,867・町中召仕3,325と伝え,正徳2年は人数2万1,393うち男1万827・女1万566,同3年は家数5,488。以降,享保2年5,399軒・2万813人,同10年5,491軒・2万1,622人,寛延3年5,538軒・2万483人。また寛政元年には人数1万8,364うち男9,650・女8,714,弘化4年の人数2万269(男9,928・女9,853・寺社など488)で,そのうち町組1万7,039・地方3,216・朱印地神明社14であった。明治維新を迎えると,明治3年町組を改めて区制をとり,同5年には橋北を一大区,橋南を二大区とし,大区内をさらに小区に分けた。同7年旧侍町・町人町を86町に改変し,加えて,兵部省から陸軍省の管轄に移されていた旧城郭などを以って城町を起立。明治4年福井県,以降足羽県,敦賀県,石川県を経て,同14年福井県に所属。同22年87町に石場畑方を加え,市制町村制施行による福井市となると同時に左内町が起立し88町1大字となる。

![]() | KADOKAWA 「角川日本地名大辞典(旧地名編)」 JLogosID : 7333772 |





