100辞書・辞典一括検索

JLogos

17

岩窪村(近世)


 江戸期~明治8年の村名。山梨郡のうち。北山筋に属す。巌窪とも書いた(国志)。はじめ幕府領,のち甲府藩領,享保9年からは幕府領(「旧高旧領」では甲府代官所)。村高は,「慶長古高帳」202石余(ほかに円光院領11石),「宝暦村高帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに196石余。慶長6年の検地での反別は田9反余(うち上田2反余)・畑14町5反余(うち上畑4町余),屋敷地315坪で,検地帳には漆18束と記されている。「国志」によれば,文化初年の戸数9・人口35(男15・女20),馬1,寺院は臨済宗瑞岩山円光院。当地の人々は甲府城下元紺屋町の祇園寺の牛頭天王を氏神としていた。江戸期の村明細帳によると村の規模は東西3町余・南北4町余。甲府藩主柳沢吉保は宝永2~3年当地に菩提寺として黄檗宗穏々山霊台寺(のち竜華山永慶寺と改称)を建立し,死後同寺に葬られたが,享保9年柳沢吉里が大和国郡山へ移封される際に同寺は破却され,吉保夫妻などの墓は山梨郡栗原筋の慧林寺に改葬された。武田家の家臣土屋右衛門尉の屋敷があった円光院西南の畑地には人々の恐れた魔縁塚と呼ばれるものがあった。安永8年甲府代官中井清太夫は治下に民衆の恐れる所があってはならないとして,円光院住職愚に協力を求めてその塚を人夫に掘らせたところ,深さ2丈程で石棺が現れた。蓋に「法性院機山信玄大居士,四月十二日薨」と刻まれ,さらに炭・骨片などを出土したため,信玄の火葬地であったことが確認されて信玄の墓所として幕府へ報告された。清太夫は掘った所を元どおり埋めさせ,塚の石碑も拓本にとり一緒に埋めさせた。その後同年甲州諸村の武田旧臣の子孫50余名によって三重の台石に高さ3mの新碑をたて,その碑銘を愚が書き,信濃国高遠の石工北原源内・同政人が彫った。この魔縁塚の南に逆さ塚といわれる河尻秀隆の碑がある。織田信長に武田氏旧領の支配を命じられた秀隆は武田氏時代の政策の破棄を断行して領民に憎まれ,信長の死後当地で襲われ,逆さ埋めにされたという。明治元年甲府城代代理として甲府代官中山誠一郎が東海道浜松宿(静岡県)で官軍の東海道副総督柳原前光に勤王遵奉の請書を提出したが,中山誠一郎に代官御手元役として随行した当村の深沢平右衛門は「道中記」「御維新記録」を書き残している。明治4年山梨県に所属。信玄の墓所は明治維新の甲府城無血開城後,神主や武田氏旧臣の子孫によって組織された護国隊の血盟場所や,明治5年の大小切騒動ではたびたび農民の集会所とされた。一方,誰一人詣でる者がなく草に埋もれた逆さ塚は,付近の開田が進むと塚の近くまで鍬が打ち込まれて次第に小規模な盛り土となり,祟を恐れてか高さ40cmの石碑がたてられた。地租改正前の耕地面積は田2町余・畑15町余(市郡村誌)。明治8年相川村の一部となる。




KADOKAWA
「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
JLogosID : 7335174